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社会に感染症は併存してきた

新型コロナは既に世界にとって所与の存在になっている。つまり、この感染症が普通にあるものとして受け入れて行くしかないのだ。

歴史上こういう感染症が社会に存在するのは決して稀なことではなく、例えば1910〜50年の日本における結核の人口10万人あたりの死亡率は200人以上。今の新型コロナは2.5人位だろうから、どれ程の脅威であったか。しかも若い女性に感染者や死者が多かった(「日本の結核流行と対策の100年」)。その当時の様子は小説などで窺い知れる程度だが、若い女工さん達に感染が多発していた製糸工場が閉鎖されたりもなかったようだ。

勿論、人命に関する考え方は年を経るごとに鋭敏さを増しており、当時のようなやり方を肯定するものではない。ただし、当時であれば、工場閉鎖による失業はそこに働く経済的に貧しい農村出身の女工さん達にとっては死に匹敵するような過酷な状況をもたらしたかも知れない(三原じゅん子厚労副大臣、いつも熱心に質疑を聞いておられるが、昔この当時を描いた映画に出ておられた)。

社会から疾患による死者を根絶することは出来ず、経済活動の閉塞も失業者の増大や最悪自死にまで繋がるということを考慮すれば、春先とは違い如何に閉鎖的措置を強化したとしても新型コロナ根絶が不可能ということが確実になった今、社会全体でバランスの取り方を討論すべき時期に来ている。

感染症の専門家の方たちはそれが仕事なので1人でも感染者を減らしたいとお考えになるだろうし、最悪のケースを想定されるのはむしろ当然。
一方で、政権側は勿論社会経済運営をしていかなければならないので、防疫策最優先とは行かないし、傷んだ産業については再生策(その一つがGo To)を講じなければならない。
その両者のバランスが重要なのだが、不幸なことに日本では新型コロナパンデミックが、政権攻撃の武器としてマスコミから、また政治的に利用されている感が強く、両方の立場から知見、エビデンスや論理に基づいた建設的議論が行われるということが全く行われていない。

その辺りの議論を実践すべく、厚労委員会では常にエビデンスとなる資料を提示して質疑している。昨日は予算委員会理事懇に出席する機会を得たのでそこでも問題提起をさせていただいた。

ただ、残念ながら深まった議論が国会内でなされることはなく、政争に明け暮れているとの感が強い。

皆さんからの声で今の議論の在り方が変わっていくことを願っている。