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内閣不信任案と新しい政治への期待

 本日、衆院本会議で内閣不信任案が否決された。内閣不信任案の提出については賛否があり、個人的にはここぞと言う時にとも思うが、野党というか政党の存在意義は政権奪取。その意味では参院選前での提出は自然な流れであった。

  今回、出色だったのは議論の中身。
 趣旨弁明に立たれた立憲民主主党の枝野代表。前回の不信任案の際には3時間の長大な演説をされたが、今回のものは論点ごとに整理されていただけでなく、対案が散りばめられていて、わかりやすく聞き応えのある演説であった。消費税増税凍結の必要性を訴えられたところは、意見が異なるところではあったし、新政策「ボトムアップの経済」については財源論も聞きたいところだったが、新しいスタイルの国会討論の予兆を感じた。

  流石と頷かされたのは社会保障を立て直す国民会議の野田元総理。内閣不信任の理由を5つ(1.アベノミクスの失敗  2.財政再建を遠のかせた  3.社会保障と税の一体改革を裏切った  4.場当たり外交の行き詰まり  5.不都合な真実の隠蔽)に分けて論じられ、正に簡にして要を得た討論をなされた。わずか10分の持ち時間でこの内容を語れる政治家は現在、野田氏を措いて他にはいないであろう。
  今の困難を極める日本の舵取り役として、舞台の前面に立たれることを強く期待させていただく。

急がば回れ。野党が政権を取るために。

最近の政治に関する話題で気になっているのが、候補者選考において、与野党共に話題性のある候補が重視されていること。特に比例代表は花盛りだ。

擁立理由として、多様性確保がよく言われているところ。多様性は大事。ただ、政府と、あるいは行政官庁と対峙していくには、それなりの素養と知見、判断力がいることも事実。法案などのレクを受けていると、かなり高度な現実経済を背景としたものもあり、理解には幅広い知識が必要と痛感することがある。

どんな分野でも必要な知見が高度化している中で、多様性と同時に議員として求められる能力といったものが本来存在するはず。

元〇〇という話題性だけでなく、その後培ってきた実績や経験があり、その上で、というならば単なる杞憂だろうが、インタビューなどを見ると、声を掛けられてチャンスだから、などの答えもあり、トップダウン的な思惑の合致が透けて見えることもしばしばある。

野党にもやがてチャンスがやってくるであろうことは、欧米の選挙を見れば感じ取れること。民意は流動性を増し、極端から極端に振れやすくなっている。

今の安倍政治にないもの、それは既得権益から離れた透明性のある合理的な政治。そういった政治が求められる時は必ずやってくる。その時に確実にチャンスをものにするためには、野党に対する国民の信頼感を上げていくことが大事だろう。

野党が政権を取るには、当たり前のようだが、今与党に票を投じている方からの信頼を得るか、あるいは投票に行っていないサイレントマジョリティからの信認を得るか。

そのために求められているのは、言葉にすれば質実剛健、目先にとらわれず、従来のやり方に固執しない、そんな野党の姿であろう。やり方を変えて欲しい、つまりは政治のアップグレードを求める国民の声は意外に多い。それは野党への期待でもあるのだ。

今の日本の行き詰まりはMMTやバラマキ財政政策では解決できない。

 参院選で注目しているのが、れいわ新撰組の帰趨。その拡張的財政政策と財政事情を無視した減税政策に私は反対ですが、立憲民主党に代わってコアな左翼層の支持を集めているように思われます。

    その理論的支柱はおそらく、MMT(現代貨幣理論)。これについて東京経済大学学長岡本英男氏が「私が意義を見いす理由 MMTは新次元の政策 均衡財政主義の再考を」と題するわかりやすい論稿を書かれていた。完全雇用達成のために貨幣増発によって拡張的財政支出を行なっていく、というのがこのセオリーの要。

 しかし、完全雇用が達成されている(一定の摩擦的失業はあるので、完全雇用が達成されても失業率は0にはなりません)今の日本には不要な政策でしょう。完全雇用が達成されている日本でさらに借金による拡張的財政政策を取るのであれば、それは擬似MMT。本来の姿を逸脱したものとしか言いようがありません。

  日本あるいは日本経済の抱える問題は、人口減少による需要の減少、企業の国際的競争力喪失、社会全体の硬直性(既得権益)の増大など。これらに対し、 MMTというかどうかは別にしても、拡張的財政政策は効果が薄いでしょう。

  もっとも、今の政権与党の政策はMMTあるいは擬似MMTそのもの。本家本元から、日本が見本と言われている始末ですが、実際、アベノミクスと言われる財政金融政策では日本経済のデフレーというか長期低落の前記原因を改善できていません。こういった課題や、人口構成の変化による社会保障破綻への不安を解消するために必要なのはMMTによるバラマキ政策ではないでしょう。人口構成の大変化を踏まえた合理的な国家システムの再構築こそなされていくべきなのです。

2000万円年金問題は参院選の争点とは成り得ない。今は、本腰を入れた政策提案を準備すべき時だ。

 本日行われた党首討論。丁々発止のやり取りとなり、興味深いものとなったが、やはり「2000万円年金問題」では政権、安倍首相を攻めるのは無理であったことがはっきりした。今回の討論でメインテーマとなった年金の問題は正面から討議すれば,簡単な解決策などないことはすぐ明らかになる。政府を批判すれば済むというものではない。

 

 立憲民主党の枝野代表は、今までの野党議員の発言とは異なり、煽りの要素を捨てて議論を挑んだが、年金水準の嵩上げは困難であることを認め、他の社会保障政策、労働政策に話を移したが故に、噛み合わない議論になってしまった感があった。

  国民民主党の玉木代表は、新しい財政検証がまだ出てきていないこと、現時点でマクロ経済スライドによる将来の給付水準について、平成26年の財政検証における最悪のケースH以下になりそうなことを指摘された。鋭い指摘であった。これは、私も繰り返しブログで指摘させていただいてきたところ。そうなれば、やがて積立金は枯渇し、国費を大量に年金基金に繰り入れない限り所得代替率が5割を割り込み、4割さえも割り込んでいく。

 ただし、それをどうするかについては、「家計を下支えする経済政策が大事」というあまりよくわからないまとめとなってしまっていた。アベノミクスによる弛緩した財政出動と何が異なるのか、財源はどうなのか、時間の制約があったとはいえ、そこを示して欲しかった。

 

 さて,年金制度の何が問題か。将来の給付水準だ。

 この問題を検討するにあたって,過去の給付水準の変遷をまず見てみる。厚生年金法の全面改正が行われたのが1954年,国民年金法の全面施行が行われたのが1961年。この頃,国民皆年金という現在の制度が形作られた。当初は,積立方式でスタートしたようであるが(この点,以前のブログで賦課方式とした点謹んで訂正いたします),当時は,圧倒的に年金保険料支払者(=支え手)が多かったのであるから,方式がどちらであってもあまり問題とはならなかったのであろう。

 その後の経済成長と人口増大に合わせるように年金の給付水準は,上昇していく(勿論加入期間が長い受給者が増えた影響もある)。和田正彦氏の「公的年金の絶頂期は昭和55年だった!?」という記事によれば,昭和40年には36%に過ぎなかった所得代替率は,昭和44年に45%,そして昭和48年には早くも62%に達している。和田氏によれば,平均加入年数30年で68%もの所得代替率の年金が支給された昭和55年が年金のピークであった。

 それが、加入年数が長くなっても所得代替率が変わらなくなり、また、それまでは夫一人の厚生年金で算出されていたものが、やがて夫婦の年金の合計が基準とされるようになっていく。日本の官僚・政府お得意の数字の誤魔化しがここでも行われているのだ。

 平成26年の所得代替率は62.7%。この数字でも、家計調査(金融庁の家計報告書の元データ)では、平均値ではあるが高齢無職世帯は、月5万円、貯蓄を取り崩して家計に組み入れている。この5万円は、現状では生活水準を維持したり子や孫への援助に使われていて節約可能な範囲内と数字上は解釈できる。だが、所得代替率は、将来的にはほぼ確実に5割を割り込まざるを得ない。現在の設計では、5割を割り込むときにそれでもマクロ経済スライドを適用するかはそのとき検討することになっているが、そういう状況ということは経済縮小が続いているということ。そのとき財源確保は至難の業だろう。この先さらに年金水準が低下すれば、厚生年金受給者であっても、年金だけでの生活は困難になる。すなわち実質的な部分的年金破綻が既に見込まれているのだ。

 そして、勿論、現状7万円未満の国民年金では、生活水準を維持することは極めて困難、という大問題も存在している。酷暑にもかかわらず、畑で農作業されて熱中症でなくなる高齢農業者の方が毎年おられる。その背景には、国民年金がナショナルミニマムを満たしていない、という背景があるのだ。

 将来にわたって年金水準を5割に維持していくためには、あるいは国民年金とナショナルミニマムを考えた時、年金制度には今以上の国費投入が不可欠であり、財政破綻なくこれを可能にするには、国民負担率の上昇が不可欠であろう。もちろん、それは消費税に限るものではなく、法人税や所得税、配当金・株式譲渡益への課税強化も課題となる。これら税制において、所得の把握が網羅的に可能となり、かつ情報処理が高度化かつ容易化になった現在においては、一律あるいはテーブル制の税制ではなく、個々の所得・利益額に応じた指数曲線的な税制とすることも可能であろう。

 党首討論を聞いてみて、年金の問題を参院選の争点とするのは無理だと感じた。野党側に真の問題点である年金水準の維持あるいは高齢者の生活維持のための社会制度変革への提案の準備ができていないのだ。

 ただ、次の総選挙まではまだ時間がある。野党あるいは次を担う新しい勢力は、十分に備え、国民に未来を提示する準備をしなけらばならない。

レジュームチェンジをもたらす野党を。国民が待ち望んでいるのはそこである。

時事通信社の世論調査によれば、自民党の支持率は27.7%に上る一方、野党は立憲民主党でも3.3%、国民民主党は0.6%と惨憺たる状況。この政党支持率の結果はきちんと受け止める必要がある。

最近の安易な電話調査の問題点は確かにあるが、バイアスのかかっていない、政治関係の付き合いではない弁護士仲間や事務員さんなどに聞いてみるとだいたいこの世論調査の感じである。

どの業種でもそうだが、責任を持って事業体を率いて行くには、綺麗事だけではなく泥を被る覚悟が必要。そして、そこから生まれる独自の考え方というか信念があって初めて道が拓けてくる。

国であってもこのことは同じ。全ての主体にとって上手くいく政策などあるはずもない。今の野党に根本的に欠けているのはそういったある意味ドライな視点だ。耳においしい減税策やカッコいい批判を、キリッとした態度で言ってみせたところで、あらゆる方面で行き詰まりが生じているこの日本の現状を、切り抜けて行けるという国民の信頼感には繋がらないことがなぜわからないのだろうか?

各野党も維新の党が関西であれだけ評価を受けている現実を直視すべきなのだ。今の政治状況を変えて行きたければ、政党、特に野党こそアップグレードすべきだ。ドングリの背比べや、党利党略、ポピュリズムなど眼中にない、真っ直ぐに日本の未来を見つめた堂々たる政治勢力が今こそ必要な時だ。

それにふさわしい実績や経験、優れた能力のある議員の方々が確かにおられる。数合わせではない信念からの力が立ち上がることを、心から願う。レジュームチェンジをもたらせる野党を。今までの常識に縛られない政治勢力こそ、国民が待ち望んでいるものだろう。

【国会報告】年金2000万円問題とはそもそも何だったのか?議論されるべきはどこか。

 今日の衆議院財務金融委員会で「年金2000万円問題」の集中審議が行われた。審議を通して、この問題についてだいぶ整理がついてきたと感じた。

 元々、この問題についてはマスコミと与野党のミスリードで火がついていることはこれまでも連続して述べてきた。

 報告書に書かれているのは、

「年金給付額」-「現に生活に必要な金銭の額」=△5万円

という事実ではない。

「年金給付額」−「実際に使っている額」=△5万円

という事実だ。似たようなものと感じられるかもしれないが両者はだいぶ違う。

 高齢者無職世帯であれば、余裕のある暮らしや子や孫への援助をしようと思えば、貯金を取り崩すことになる。年金で足りているかいないかは別の話。 そして、△5万円というのは平均額なので、例えば上場会社の大株主のように、無職ではあるが巨額の収入や資産を有する富裕層が多額の援助を子や孫にすれば平均額は上昇する。

 厚労省の家計調査における高齢夫婦無職世帯の家計状況を転記したものに過ぎない今回の報告書の記載をもって「年金が崩壊している」とか、「国民に謝まれ」だと批判するのは煽りの類。報告書を認めようとしない与党の姿もピントがずれているとし言いようがない。

 このことを別の角度で捉えて質問されたのが串田誠一委員(維新)。そもそも、今回の報告書は年金制度の給付水準や維持可能性についてのものではない。「金融審議会・市場ワーキンググループ」の議論の結果だ。

 金融審議会・市場ワーキンググループへの諮問事項は、「市場・取引所を巡る諸問題に関する検討」。具体的には「情報技術の進展その他の市場・取引所を取り巻く環境の変化 を踏まえ、経済の持続的な成長及ひ家計の安定的な資産形成を 支えるべく、日本の市場・取引所を巡る諸問題について、幅広く検討を行うこと。」

 年金が足りているかいないかではなく、「家計の資産形成を支えるべく、日本の市場・取引所を巡る諸問題」について検討するグループだ。そのメンバーも課題に則し、ファンドや投信の関係者が名を連ねている。そもそもが、投資を促進するためのWGなのだ。その報告書もその方向での議論に誘導されるのはある意味当り前。

 そして、今回の報告書も、「もっと投資をしましょう」という方向への議論がなされており、厚労省の家計調査もそのための布石というか前提として紹介されているものに過ぎない。

 串田議員は、以上を確認された上で、さらに紹介された高齢夫婦無職世帯の家計収支に着目した。

 支出項目の内訳をみれば、教養娯楽費25,077円、その他の消費支出(交際費、小遣い、仕送り、理美容等)54,028円、計79,105円となり、節約しようと思えば節約できる項目での支出が不足分とされる5万円を上回るのだ(ちなみに今日の報道ステーションは支出の解説の中でこの部分の説明を意図的に省いていた)。

 以上によれば、今回の報告書を、現在の年金が破綻している、あるいは必要最低限度の生活費を賄う水準を下回ってしまっていることを発表したものと捉えることには無理がある。そして、それを前提とした非難はやはり的外れなのだ。

 また、今回の2000万円問題には、もう一つの問題があることが松原仁委員(社会保障を立て直す国民会議)の質問で明かされた。

 松原委員は、委員会の冒頭で陳謝した金融庁の三井企画市場局長に「陳謝する必要はない」と訴えられたのだ。私も強く同感である。金融庁は、WGの意見を基に、その立場から纏めるべき報告を纏めただけ。何も謝罪するようなことはしていない。

 問題とされるべきは、WGの活動の成果を政治的思惑から受け取り拒否した麻生財務大臣なのである。その拒否の理由こそ問題であった。松原委員の質問で明らかとなったのだが、受け取り拒否は史上初とのこと。

 しかも「政府の姿勢と異なるから」というのがその理由であったのだから、これは異例中の異例。これが前例となれば、今後は審議会は政府に「忖度せざるを得ない」ということを松原委員は問題視された。正論中の正論である。

 本来、議論されるべきは今回の報告書ではない。年金の財政検証である。将来に渡って本当に所得代替率5割を維持できるのか?マクロスライド方式が取られている以上、将来も現在の低成長が続き賃金や物価が上昇しない経済状況が続いた場合、そのままマクロスライドで年金を低減すれば、将来的に所得代替率は4割を割り込む(平成26年財政検証結果Hケース)。

 5割を割り込むことになった時点において、それでもマクロスライドを実行するか否かはその時に検討することになっているが、仮に5割を維持しようとすれば多額の国費、つまり財源が必要となる。これから人口オーナスが続き、日本企業が次々と負け組となっていくことを考えれば、この将来的見通しこそ与野党が一致して取り組むべき大問題なのだ。

 繰り返し述べる。煽りや感情的議論ではなく、国民の将来の生活安定のため、与野党は建設的な意見交換をするべきであるし、マスコミも正確な報道をしていくべきなのだ。

金融庁は称賛されるべきだ。政治の真の姿を炙り出したのだから。

 連日、金融庁の報告書「2000万円」問題が話題となっている。この問題について、今までと変わらず与党支持・野党支持のそれぞれの立場から一方的かつ非理性的な批判が行われる一方、冷静にしかも客観的にこれを論じるコメントが寄せられているのが目立つ。私の書いた「不都合な真実から目をそらすな」「年金では暮らせないは正直な事実」にもFacebookやBLOGOSで多くのコメントが寄せられているが、驚くほど客観的でポジショントークとは離れて論じられている方が多い。ブレグジットの時にイギリス市民が相互に冷静かつ喧々諤々の議論をしている様子が報じられたが、まるでそれを思い起こさせる。

 それに対して、与野党の反応はどうか。選挙を意識することはやむを得ないこととはいえ、党利党略からのポジショントークがあまりにひどい。曲がりなりにも政治家、政党ならば年金だけでは暮らしに不自由する状況が益々悪化していくという、このまごうことなき真実はわかっていたはず。これをなんとかするには、国民負担率の大幅増を含めた制度改革が必要なことは、与党だけでなく、野党各党もわかっていたはずのことである。

 しかし与野党ともわかっていながら黙っていただけで、それを正直に国民に告げ、「冬に備えよ」、と言った金融庁ないしはその報告書を非難するのはあまりに卑怯というものだ。

 その罪(なんの罪かもわからないが)を金融庁に押しかぶせ、撤回を迫る自民党の姿はあまりに醜悪。そして、報告書の受け取り拒否をした麻生財務大臣は、普段の率直で部下を庇う姿とはかけ離れてしまっていて残念至極というしかない。国民の将来を憂い、正直な仕事をした部下を突き放しては、今後彼らは二度と国民のために働こうとはしないだろう。官僚は、これに懲りて益々政権与党の顔色を伺うことしかできなくなるはずだ。

 一方の野党も、これを党利党略、参院選に向けてのチャンスととらえて政権攻撃の手段とするならば、その姿は与党とあまり変わりはない。

 こういった与野党の姿こそ国民に政治不信を抱かせてきたのであろう。そして、日本の民主主義が機能していない真の原因は、こうした目先の利益に飛びつく政治的体質にあるのだろう。

 今回の年金問題、金融庁の功績は大きい。国民に対し、老後に備えるべき、という正しい警鐘を鳴らしたことにとどまらず、今の政治の無責任さを全国民に正しく露呈させたのだ。

 なお、この問題に関して簡にして要を得る解説が山崎元氏の記事で纏められているので是非ご覧いただきたい。

 

不都合な真実から目をそらすな

 弁護士の経験で,事実を直視できない方を何人も見てきた。債務が膨れ上がり,到底返済の見込もないのに破産などの法的処理に前向きになれず,自分や家族を苦しめ続けるのだ。「保証人に迷惑を掛けられない」という方も多く,心情的に忍びないこともあったが,多くは無理なローンで最初から維持できないことはわかっているようなマイホームにこだわり「家を手放せない」と言うパターンであった。はては「ローンで買った新車をどうしても諦められない」という方もいた。中には悪質な業者に手を出し,追い込みを掛けられて石を投げ込まれるまでしてようやく整理を決意した,というケースもあった。その時に思ったのが日本人は現実を直視できない民族性があるのだろうか,ということであった。少し話は飛んでしまうが,第2次大戦も,現実を直視して日米の国力の差を比べれば,そもそも開戦などあり得ない選択だったろう。

 なぜそんなことを思い返したかといえば,金融庁の「高齢社会における資産形成・管理」報告書のいわゆる「2000万円問題」に関するマスコミや与野党の取り上げ方がおかしいと思うからだ。毎日新聞によれば当初案であった下記表現を削除し,穏当な表現に書き直されたとのこと。

「公的年金の水準が当面低下することが見込まれていること」

「公的年金だけでは望む生活水準に届かないリスク」

「年金の給付水準が今までと同等のものであると期待することは難しい。今後は,公的年金だけでは満足な生活水準に届かない可能性がある」

 しかし,当初案に書き込まれていたのは,いずれもまごうことなき真実だ。人口構成の変化と経済の低迷,賦課方式であることが相俟って,年金が現在の水準を維持できないことが最初からわかっていたことは,前のブログ「「年金では暮らせない」は正直な事実。与野党共に国民に真実を告白すべき時が来ている。」で指摘した。

金融審議会「市場ワーキング・グループ」第24回20190603:資料01金融審議会市場WG報告書(案)「高齢社会における資産形成・管理」より

 上記グラフが如実に示しているとおり,年金の支え手が急減し,支えられるものが急増する社会が進んでいくのであるから,当初案の指摘は,いずれも動かしがたい真実なのだ。

 ところが,マスコミも野党も与党さえも,この不都合な真実から目を背け,これを単なる政権攻撃の手段としてとらえようとしている。例えば,朝のニュース番組というかワイドショーのキャスターが渾身の怒りを示したという。キャスターとして知っているべきことを自身が知らなかったのだから,ただの勉強不足だ。また,わかりきっていた事実を正直に国民に提示したことを責めてどうするというのか?珍しく官庁が責任感を持って国民に呼びかけたことが批判されるなら,不都合な真実がまた闇に隠されるだけだ。

 自民党幹事長は,この報告書をまとめた金融庁を攻撃し,自民党として撤回を要求している。公明党も同じ姿勢だ。麻生大臣はその趣旨は不明だが,この報告書を正式なものとしては受け取らない,と報じられている。一方,野党党首からは「それをどうするかが自身(大臣)の仕事だ」との発言もあったが,その通りではある。ではどうするかが問題であるのだが,ただし,それは与党にとどまらず野党に課せられた課題でもあるのだ。だから,これを政権攻撃の手段に使うのではなく,これを契機に日本の年金制度維持のために大局的な議論を行うべきなのだ。

 今回の金融庁の呼びかけは,行政レベルでできるそれへの対応として,まず金融資産形成を呼びかけたものだ。金融資産を形成しようと心かげることについては,早いことに越したことはない。時間という資産形成にとっての貴重な資源を十分に利用できるからだ。

 問題は,政治レベルだ。委員会での議論も党利党略に基づくものではなく,建設的な討議が行われるべきであるし,もし,これを参院選の争点とするのであれば,財源も含め年金制度の大改革を議論すべきだ。そして,与野党ともに,財源を明示せず年金水準を上げるとだけ叫ぶ子どもだましは絶対にするべきではない。仮に年金水準を維持するとなれば,消費税を含めた国民負担率をEU並に引き上げ,積立方式に切り替えていくというのが根本的な解決策であろう。

 今がその時機なのだ。

 マスコミも,与野党もこの大問題を,単なる政争の具としてはならない。正面からの議論のぶつかり合いが,日本の将来を変えていける唯一の手段だ。

 

「年金では暮らせない」は、正直な事実。与野党共に国民に真実を告白すべき時が来ている。

 金融庁が年金について取りまとめた報告書が波紋を広げている。「人生100年時代を見据えた資産形成を促す報告書をまとめた。長寿化によって会社を定年退職した後の人生が延びるため、95歳まで生きるには夫婦で約2千万円の金融資産の取り崩しが必要になるとの試算を示した」(日本経済新聞)のだ。これについて、野党の幹部が、「年金で暮らせない。まず謝れよ」とコメントしているなどと報じられている。

  「今までとは違う説明であった」という理由で国民に謝罪すべきというその論は正当だが、ただし、それは政府与党や行政庁だけの問題ではない。野党を含めた政治家全体に当てはまる事なのだ。

 なぜなら、日本の年金制度が「生活をそれだけで維持できるレベル」に保てることなど幻想に過ぎないことなど、とうの昔から与野党問わず分かり切っていた事実だからだ。

 日本の今の年金制度が形作られたのは戦後のこと。そのときは第二次世界大戦の影響もあり、高齢者が少なく、若い世代が多い、まさにピラミッドのような理想的な人口構成であった。そのような人口構成に適した制度として、「賦課方式」による制度設計が行われたのだった。賦課方式とは、勤労者(現役世代)が納めた保険料は、そのときの年金受給者への支払いにあてられ、自身のために取っておかれるものではないという方式。これに対置されるのは積立方式。自身が納めた保険料が、引退時に自身に返ってくるという方式だ。今の状況に即して考えれば積立方式が合理的だが、戦後の状況は今とはまったく異なっていた。

 例えば、1970年には、1人の年金受給者を、42人の保険料支払者が支えていたのだ。どれだけ余裕があったかは計算するまでもなく理解できる。だから、戦後しばらくは賦課方式が合理的な制度だったのだ。

 しかし、その状況が出生率の低下に伴い変化し、昭和が進むにつれ5人で1人、平成では人で人、そして現在では2人で人を支える状況になっていったのは周知のとおり。やがて1人が1人を支える時代がやってくる。

 1人で人を支えるのであるから、現役世代に過重な負担をさせるのでない限り、十分な年金を受給できなくなることは火を見るよりも明らか。

 過去に厚労省の発表した見通しでもこのことは示されている。平成26年に発表された厚労省の推計によれば、物価上昇率や実質経済成長率からみてもっともありそうなケースHおいて、所得代替率(現役世代の手取り年収の何%が年金水準かを示すもの)は2050年43%に低下し、その後30%台に落ち込む。今の数字に置き換えれば現役世代の手取りが360万円とすれば、年金生活者は夫婦二人で153万円。月に直せば12万円で二人分の生活費を賄うこととなる。年金だけで暮らしていくのが困難となることは、以前から明らかであったことなのだ。

(厚生労働者:将来の公的年金の財政見通し(財政検証 より)

 

 この事実は、与党だけでなく、野党も承知していたはず。金融庁が正直な見通しを今回発表したことを責めてもどうしようもないこと。

 本来であれば与野党共にこの事実を認め、年金制度の将来的維持のために喧々諤々の議論をすべきなのだ。そのためには、積立方式への変更を含めた大改革も検討されなければならないが、そのためには国民負担をEU並みへ増大させることも議論されなければならない。さもなければ、引退という言葉が死語となり、「一生働ける社会」ではなく「死ぬまで働かなければならない社会」が実現するだけだ。

 そう遠くない過去においては、野田元総理が、社会保障の維持のため、政権を投げうつ覚悟で3党合意をまとめられ、消費増税による社会保障維持の道筋をつけられた。

 しかし、その後、その精神は政権与党に受け継がれず、政権維持のために未来を犠牲にしたかのような増税延期が図られた。一方の野党も、年金制度の維持、社会保障の維持のために骨身を削る覚悟があるとは思えない。消費増税凍結を声高に主張する政党ばかりであるのが現状だからだ。そして、野党がよく訴える歳出における削減には限界はある。たとえば、よく引き合いに出されるのが防衛費。しかし、防衛費は歳出の5%に過ぎない。だからこれをいくら削っても年金水準の維持や社会保障費の増大には到底追いつかない。そして、このままでいけば年金保険料の「払い損」や60年払いの国債増大で損をするのは若い世代であることも十分に承知しているであろうにそのことは与野党とも口をつぐんだままだ。

 

 政党が、政治家が、本当に未来に対して責任感を持っているのであれば、金融庁が行ったように、勇気をもって厳しい現実を国民に示すべきだ。その上で、国民負担の増大が必然であることをも国民に対しきちんと告げた上で、年金・医療を含めた今の日本が誇るべき社会保障を維持し発展させるために必要な制度設計の大改革を、国民と共に考えていくべきなのだ。

ポピュリズムは伝染する

 消費税ゼロを訴えるポピュリズムには反対する。れいわ新撰組が「選挙で勝つため」を認めた上で消費税廃止を訴えている。同じ訴えをする立憲民主党の参院選候補者も現れたらしい。民主主義、自由主義の世の中である以上、何を訴えるのも自由。だが、消費税廃止を訴える政治家が増えれば間違いなく日本の財政規律はよりルーズとなる。そうなれば通貨への信認あるいは日本国債への信用は失われ、円安インフレへの道が真っ直ぐに口を開けて待っている。10%の消費税よりも庶民にとって怖いのはインフレ。今現在もベネズエラでは年率1000万%!とも予測されるハイパーインフレが進行中だ。それもこれもバラマキ政策のなせる技。

 与党議員にもMMT信奉者が現れている昨今、これは危険な兆候というしかない。

 

 そもそも、日本という共同体は国民のもの。そのオーナーたる国民が費用を支弁し、その見返りとして社会保障などのサービスを享受する、当たり前の姿だ。負担なくしてサービスだけを享受しようなどと主張するのは、日本を、自分たちが運営するコミュニティとは考えていない証拠だ。日本を、どこか遠い存在ーお上が運営するものと捉え、サービスはお上からの一方的な恩恵と捉える。だからこそ、消費税を廃止し、バラマキを行っても平気などと考えてしまうのだろう。

 しかし、それでは共同体は持たない。EU諸国では消費税20%は当たり前。デンマークなどは25%にも上る。社会保障を享受するためには国民もそれに相応する義務を負わなければならないのだ。恩恵だけ受けるということなど現実社会ではあり得ない。仮に瞬間的には成り立ったとしても、その魔法が解けたとき、ベネズエラのように必ず大きなしっぺ返しに襲われる。

 ヨーロッパ、特に北欧において社会保障を中心に理想の社会に近いものが実現しているが、それは、負担なくして成り立っているのではない。国民が、当事者意識をきちんと持ち、受益に相応する負担も受け入れている成熟した社会だからこそ、理想が現実化しているのだ。

 日本において、政治に対する関心が薄れてきているのも、社会がどこかうまくいっていないのも、この当事者意識の欠如こそが真の原因だろう。日本という、実は素晴らしい共同体を維持していくためにも、政治家も政党も、そして国民も各々の責任を自覚すべき時が来ている。