【国会報告】本会議:民事執行法一部改正

 今日は午後から本会議。民事執行法の一部改正案の質疑が行われました。この改正案は、①財産開示命令(裁判で負けたのにお金を払わずいる人の財産を明らかにするよう、債務者の出頭を求める制度)②不動産競売に暴力団員が参加できなくするための手続整備③ハーグ条約に関連し、子の引き渡しに直接的な強制執行を認めてそのやり方について手続を新設するもの、の3つを定めたものです。
 ①②は、実務に生じていた問題点を改善するもので賛成ですが、③には抵抗があります。ハーグ条約に沿った子の引き渡しがなされていないことについて国際的批判があったことは事実ですが、法整備が進むことにより、様々な事情により海外から国内に子どもと共に逃げ帰って平穏に暮らしている親子を無理やり引き離すという事例に繋がることも当然予想し得るところです。国際的批判がいつも正しいとは限りませんし、今まで法務省が意識的にこれをサボタージュしていたのは、そういった点を考慮しての日本的なやり方での抵抗だったのでしょう。
 今日は野党第一党、第二党が代表質問されたのですが、私が法律の実務家である故に余計辛口な評価になってしまうのでしょうが、①②の実効性について十分な理解がなされているのか疑問の残る質問でした。そして、③について、その背景に潜む上記の問題点について意識をあまりされているようには思われませんでした。
 やはり、野党はシンクタンク的な機関を自前で持つ必要がありますし、それでも不足する分について、日弁連などの各委員会委員にリサーチする必要があるのではないでしょうか。野党の政権担当能力は、こういった細かいところに現れてくるのだと思います。率直にいって、現状では不足があります。
 もう一つ、気になったのは法案外のことに関する過度の言及。私が普段リサーチしているところによれば、普通の国民はこういうやりとりをあまり好ましく思っていません。
 野党は常に国会における質の向上を意識し、中身で勝負、という姿勢で堂々と論戦を行っていただきたいと強く願っています。
なお、野党が政権を担当するためという視点からの批判ですので誤解なきよう。批判ないところに改善も向上もないのですから。

環境省が環境破壊省になった日

皆さんは「再生利用実証事業」というものをご存知だろうか?

あまり耳慣れないこの事業は、環境省が今福島で進めている事業だ。

除染作業で集めた土は、本来であれば福島県内の中間貯蔵施設で保管された後、30年以内に県外の最終処分場で処分されることになっている。最終処分は普通であればトレンチ、すなわち地中に溝を掘ってコンクリートなどで障壁を作り、そこに監視しながら保管することになる。

 

現在までに集められた汚染土は1700万㎥という途方もない量だ。地道に除染作業員の方が各地で集め、フレコンバックに詰め込んだのだ。

この折角集めた汚染土を今、環境省が再び環境中に散逸させようとしている。それが再生利用実証事業だ。汚染土を道路の下に埋めたり、園芸作物(リンゴやブドウ、キャベツ、大根など)や資源作物(燃料油の原料となるトウモロコシなど)の土壌に使うというものだ。

 出典:環境省 中間貯蔵施設情報サイト 飯館村における再生利用実証事業http://josen.env.go.jp/chukanchozou/facility/effort/recycling/iitate.html

 

本来であれば,トレンチを掘って厳重に隔離した上で監視下におくべき汚染土を,道路の下に「再生資材」と称して埋め込んでしまうという発想は,一昔前の廃棄物を敷地に埋めて処理してしまっていた杜撰な工場を思い起こさせるが,今回の実証事業とやらはそれを作物の土壌の一部に使おうということなどちょっと想像もつかないことをしようとしているのだ。このような「実証事業」が既に飯館村と南相馬市で始められてしまっている。二本松市でも行われようとしたが,住民の反対にあって頓挫しているようだ。

この福島県内でなんとかごまかそうという発想は,沖縄における米軍基地問題を思い起こさせる。政府は,30年で県外最終処分を行うことができないと考えているからこそ,約束に反して,福島県内で,「再生処理事業」などというお為ごかしの名前をつけて,事実上の最終処分を進め始めているのだ。

これは絶対に許してはならない事柄だ。政府与党は,福島県民に約束したとおり,汚染土の全量を県外で最終処分しなければならない。このところの常習手段である,「名前をつけてごまかす」ということは,この問題では絶対に取ってはならない。

どうしても「再生処理事業」とやらをしたいのであれば,環境省は「環境破壊省」と名称を改めるべきだ。誰の指示でこのような環境破壊を計画しているのかは不明だが,実態に名前を合わせるのは当然だからだ。

ドラえもんが送り込まれる日。私たちの今が未来の迷惑となっている現実

私が小学生だったころ、ドラえもんの連載が始まった。のび太君があんまりだらしない一生を過ごしたので、ひ孫のセワシ君の代まで貧乏で苦しい生活が続いている。セワシ君がドラえもんを過去に送り込んで、大本の原因であるのび太君をなんとかして未来を変えようというのが始まりのストーリーだったと記憶している。

今、国会にドラえもんが現れてもおかしくない、そんなことをふと思った。

財務省の直近のリポートでは、平成31年度末の国債残高は約995兆円、それ以外の借入金や政府短期証券を合わせると、国の借金は約1250兆円に上っている。もちろん、これだけの借金が急に生じた訳ではない。下図はその推移。

出典:平成31年度予算の編成等に関する建議(財政制度等審議会)https://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_fiscal_system/report/zaiseia301120/index.html

 

国債残高が急増していったのは毎年度予算における歳入(税収)不足を埋めるために、国債を発行し続けたからである。

ただし、国債残高が急増し始めたのは歴史的にはそんなに古いものではなく、平成5年くらいから。

日本の人口増大が頭打ちになり経済における人口ボーナスが終わりを告げ、これによって高度経済成長及び平成バブルが終焉を迎えて税収も落ち込み始めたのに、政治家たちはレジューム・チェンジが起きていたことを理解しなかった。夢よもう一度とばかりに財政支出主導の景気拡大政策を続けることを選択し、これに人口高齢化に伴う社会保障費の急増も相まって予算は膨大化した。そしてその原資に、国債発行というもっとも安易な道を選んでしまったのがことの始まりだったのであろう。

(総務省人口推計より 青山まさゆき事務所作成)

出典:財務省 債務管理リポート2018 https://www.mof.go.jp/jgbs/publication/debt_management_report/2018/index.html)

 

理由はともかくとして、今を生きる我々にとっては、約1000兆円もの残高の国債が目の前に残されている、という現実だけが迫ってくる。

このため、例えば今年度予算では過去の借金である国債費に23.5兆円が費やされている。今年度予算の23.6%が、過去の負の遺産のために拘束されてしまっているのだ。

出典:財務省 平成31年度政府予算案 https://www.mof.go.jp/budget/budger_workflow/budget/fy2019/seifuan31/index.html

 

この傾向は、国債残高の累増と共に、ますます悪化し、かつ長期化していく。償還期間が10年を超える超長期国債(20年債、30年債、40年債の3種類)の比重が増しているからだ。

 

 

出典:財務省 平成31年度国債発行計画の概要 https://www.mof.go.jp/about_mof/councils/meeting_of_jgbsp/proceedings/outline/181120pdf78.pdf

 

 

40年債は、40年後に償還費用を捻出しなければならない国債だ。つまり、われわれは40年後の未来、2059年の未来に生きる日本国民の予算を拘束し、負担を押し付けてしまっているのだ。

現在国会で議論されている「特定防衛調達に係る国庫債務負担行為により支出すべき年限に関する特別措置法の一部改正法案」は、簡単に言えば武器の10年分割払いを可能にするものであり、後の予算を拘束する。分割払い分の費用は固定化してしまうので、後の予算に関する裁量の余地が狭められるとしてこれが問題視されている。

しかし、安倍政権だけでなく野党もあまり意識してはいないが、私たちは、実ははるかに遠い未来の予算を、はるかに大きい金額でもって浸食してしまっているのだ。

ある日、ドラえもんが未来の世界から国家に現れ、未来のスーパーテクで今の私たちのだらしのない財政をただしてくれればありがたい。「自分たちの使うお金は今の自分たちでなんとかしてくれ。未来の子孫のことも少しは考えなければダメだよ。」とお説教でも垂れながら。

しかし、21世紀(2003年4月7日)になっても鉄腕アトムは現れなかった。ドラえもんもきっと現れないだろう。今を生きる私たち自身が、自分たちの子孫のことを考え、未来の世代の選択肢をこれ以上狭めてはならない。おじいさんたちの世代のせいで、今の僕たちはこんなに苦しい、と未来の世代にうらまれるようなことはもう終わりにしよう。

デニー知事の言う「危なさの平行移動」。沖縄と日本の基地問題の本質

 沖縄県のデニー知事が、辺野古への基地移設は「危なさの平行移動」に過ぎない、とメディアの取材に答えておられた。結局、沖縄県内での基地移動であれば、沖縄県民にとっては平行移動でしかない。しかし、他県が受け入れるかといえば、保育所や太陽光発電所、風力発電所にも反対する日本人の国民性からしてそれは絶対に不可能。鳩山政権で実証済みのところだ。

 やはりほとんどの日本人が意識していない、戦後の占領体制の継続に終止符を打たない限りこの問題は解決しない。
 ホワイトハウスへの請願署名活動がいっとき話題となったが、もう一つしっくりこなかった。請願はオバマ大統領が市民のために作ったシステムのようだが、日本の領土における問題を、たとえ米軍基地のことだとしてもアメリカに請願するというのは従属的であり独立国らしくない。
 
 本来、憲法改正を言うのであればここのところこそ議論すべきで、その演繹の結果導かれる結論によって決すべきところなのだ。自衛隊員の子どもさんがかわいそう、などという出所も不明な感情論的な例え話みたいなことで行うべき議論ではない。国の礎に関わる問題なのだから。

【国会報告】防衛調達特措法一部改正法案

    3月7日の本会議では、防衛調達特措法一部改正法案の審議が行われました。
 国が何かを買ったときには単年度、つまりその年のうちに支払うのが原則です。その例外が国庫債務負担行為と呼ばれる分割払いです。現行憲法が制定された頃に作られた財政法では、3年払いまでを原則としていました(その後5年に改正)。ローンが多くなれば後の財政の手足を縛ることになるので当然の考え方でしょう。これを難しい言い方をすれば財政が硬直化する、と言います。
 ところが、2015年に安保法制の審議がなされる前にこれを10年払いにまで拡張する特例法(平成31年3月までの時限立法)が定められてしまいましたが、今回はこの特例法を5年間(平成36年3月まで)さらに延長するというものです。
 現在既にこの後年度負担は5兆3000億円にも登っていますが、この後、FMSと呼ばるアメリカの対外有償援助( Foreign Military Sales)でご承知のとおり、あまり性能的に評判の良くないF35であるとか、イージスアショアなどを爆買いすることが決まってしまっているため、防衛予算はますます硬直化していくのです。
 こういった問題点について、国民民主党の下条議員、社会保障を立て直す国民会議の重徳議員、共産党の宮本議員がコンパクトに要領を得た質問をされていました。こういう問題のある法案審議では特に、あまり余所事に時間を割くことなく、問題点をズバッと指摘するのが望ましいと改めて感じた次第です。

安倍政権はシュールな超現実派路線。憲法9条改正案はその路線のラスボスだ。

 歴代の自民党政権は現実的政策を基本的に指向してきた。戦後殆どの期間政権を担当してきたのだからそれは当然であった。ただそれでも、現政権以前の歴代政権は、支持者層と共有している政治的理念や歴史的経緯、さらには世間に対する建前(世間体)などには常識的に配慮していたし、踏み越えるべきではない一線というものも意識してきた。また、田中政権の日本列島改造論、中曽根政権における国鉄民営化や間接税導入(これは頓挫)、小泉政権の郵政民営化など、その政治家の理念や信念に基づく将来に向けた政策が真正面から唱えられ、果敢に実現されたこともあった。

  しかし、現在の安倍政権の政策には、歴史的経緯や建前などに対する配慮や、保守政治家としての理念は覗えない。そこにあるのは、目の前の現実に対し,必要性のみをもって対処する、というきわめてシンプルな手法だけだ。シュールの域に達したともいえる超現実派路線が実践されてきたのだ。ここで注意しなければならないのは、安倍政権の政策立案の動機である「目の前の現実」は、日本社会の現実からくる要請だけではない、ということだ。そこには、第二次大戦後、陰に日向に強い影響力を持ったアメリカからの要請も「目の前の現実」の重要なものとして含まれている。そのことは、トランプ大統領の要求によって際限なく実用性に疑問のある高価な防衛機器を購入しているのを見ればよく理解されるところだろう(余談だが、その結果アメリカは今や事実上の宗主国のような振る舞いようだ)。

 現実だけを見据えた政策の反作用として、将来における不利益が当然起きる。これは安倍政権の政策に共通した弱点だ。

 だが,安倍政権の超現実派路線の最大の問題点は,そこではない。それは、政策導入目的の本当の意図を説明せずに言葉でごまかして、あたかもその政策がおいしいものだけでできているように見せかける,そういう不誠実な手法にある。その手法が常態化しているのだ。

 

 その例を上げれば枚挙に暇がない。

 まず最初の例がアベノミクス(≒異次元緩和)。大規模なマネー増発により日本人のデフレマインドに働きかけ,トリクルダウンにより庶民の懐も良くするというのがその謳い文句であった。

 しかしその実態は,円安誘導政策であり財政破綻回避政策であった。

 当時、国債発行額が年々増加して国債買入の主力であった民間金融機関の買入能力をやがて越えるであろうことは明らかになりつつあった。苦肉の策として、財務省に日本国債を海外に売り込むための課が設置された。国債の暴落も懸念され始め、三菱東京UFJ銀行が国債破綻に対するプロジェクトチームを作ったと報道されたこともあった。国債の買い手が不足し,国債がさばけなければ利回りは上昇する。そうなれば既発国債の暴落を呼んで国債を多く保有していた民間金融機関が次々と破綻することも危惧された。日本発のリーマン・ショック再来である。

 一方では、欧米が大規模な量的緩和政策を取る中,日銀のみが健全な政策運営を続けていたため,円高が続いていた。円高は国富の増大となるし,輸入物価の低下によって庶民の暮らしは楽になるので、国民全体にとっては悪いことではない。しかし,輸出産業にとっては打撃である。

 その解決策となるのが「異次元緩和」であり,これを柱としたアベノミクスであった。しかし,この解決策は緊急のカンフル剤であるべきであった。この劇薬が安倍政権存続とともに継続し,将来の世代にとてつもなく大きな文字通りの負の遺産を残し続けてしまっている(「日本の社会は上手くいっているか?」参照)。そして日銀の国債保有残高は2018年末には444兆円にも達してしまった。

 また,ちょっと前であれば「1億総活躍社会」政策というか掛け声。高齢者や子育て中の女性も生き生きと学び働ける社会を実現する,という建前の施策である。しかし,その主眼は「学び」ではなく「働ける」方にあった。団塊の世代の大量退職に伴い,日本の労働人口減少が顕著になっていた。そこで、それまでは労働市場に本格的には参加していなかった65歳以上の高齢者世代や子育て世代の女性などを新たなる労働力として活用しようというのが真の目的であった。が、それを素直に言っては身も蓋もないので言葉でごまかしたのである。もう一つの裏目的は、近い将来に訪れかねない年金破綻や高齢者世代への医療費自己負担増加も,高齢者世代が働いて収入があればなんとか受け入れてもらえるであろうから,働ける限り働いてもらって(出来れば寿命近くまで)国の負担を軽減してもらいたい,ということ。「国民は死ぬまで働いてくれ」宣言でもあったのである。戦中の「一億総火の玉」とあまり変わらない国都合のスローガンなのだ。

 

 外国人労働者受け入れの大幅拡大や定住に道を開いた去年の入管法改正案もしかりである。特別な経験や技能(これを「特定技能」と表現)を持つ専門的人材に限って,外国人労働者を大量に,しかも5年という年限で受け入れるというものだ。

 しかし,実際は,専門的人材を目的としたものではなく、いわゆる単純労働の範疇に属するところの宿泊業や建設業の分野にも外国人労働者を広く受け入れ,労働力不足をなんとか凌ごうという目的の立法に過ぎない。また,5年は延長可能であり,10年の定住も可能だ。これは,外国人労働者に対して永住権付与を可能とするものであり,これまで事実上途を閉ざしてきたに等しい日本の移民政策を大きく変更するものである。当然、日本社会の将来に大きな変革をもたらす可能性がある。このような大変革を行うのであれば,事前に国民に対して政策的意図を説明し,国民的議論や理解を経た上で行うべき政策であった。だがそのような説明など一切なされずに性急に導入が図られたことはご承知のとおりである。

 要は人手不足が急速に顕在化したことによる産業界の要請に急ごしらえで作り上げただけの粗雑な法案であった。このため、その中身となる部分は全部省令に丸投げされ,その詳細はブラックボックス化している。そんな拙速なやり方ではなく、本来であれば入管法「改正案」などではなく,新たなる「法律」として正々堂々と導入すべきものであった。

 この政策は「現実の必要性に迫られ,小手先の対応策を取った」ものであり,かつ「言葉で真の姿をごまかした」安倍政権の問題点のまさに象徴であった。

 

 最も最近の例としては,今国会での予算案及び関連税制法案審議で問題視されている、消費税率上げに伴うポイント還元制度がある。消費税率上げに伴う駆け込み需要の平準化を図り,税率上げ後の景気落ち込みを防ぐというのがその名目である。

 しかし,2%の税率上げに対し,5%の還元はいくらなんでもおかしい。したがって、この制度は野党各党が問題視し,野田元総理も先にブログで強く批判されておられた。ポイント還元制度の恩恵を受けるためには基本的にクレジットカードなど現金決済以外の手段を持っている必要がある。しかし,子どもやお年寄りなどクレジットカードを持たない層も多い。最初から不公平なことがわかりきっている制度なのだ。選挙目当てのバラマキ(次の参院選かオリンピック後の衆院解散?を見据えて)か,加盟店拡大を図るクレジットカード会社への忖度か。麻生財務大臣ですら首をひねっている様子がありありのこの制度は,あまりに近視眼的であり理念なき「超現実派路線」の象徴である。

 

 さて,真の政策目的を押し隠し,言葉でごまかす安倍手法の最たるものはこれからやってくる。理念なき超現実派路線のラスボスは、これから論議が本格化するであろう憲法9条改正案である。

 安倍首相は,9条改正の理由というか動機について「憲法違反と言われて自衛隊員がかわいそうだから」と繰り返し言っている。その事例が実際に存在したか否かは不明であるが,あまり説得力はないし、9条改正という大問題の動機としてはあまりに弱い。大多数の国民は自衛隊員の努力に敬意を払い,憲法9条とは関わりなくその存在を正面から認めているという事実があるからだ。

 では、真の目的は何か。

 そうではないことはわかりきっているが、仮に安倍首相が保守政治家らしく

「戦後75年に渡って続いてきたアメリカによる事実上の支配を脱却し,真の独立国家としての地位を確立する。そのためには自主防衛の確立が不可欠であるので憲法9条を含めた憲法改正は必須である」と、日本の将来の在り方についての理念に基づき憲法改正を提起したのであれば,まだ良かった。日本で初めて政治的課題について国民的議論が巻き起こり,日本社会が変革するきっかけとなったであろうからだ。沖縄問題も,結局はここに帰結している。

 しかし,実態は異なる。現在の日本(≒安倍政権)はアメリカの意向には逆らえない。2013年頃から大きく方針が転換されたアメリカの世界戦略に基づき,特に海上自衛隊をアメリカ海軍の補完戦力とするべく着々と進められた法整備(先の安保法制もその一環)やそのための戦力増強の総仕上げが憲法9条改正なのである。自衛官の子どもが胸を張るためではなく,首相がアメリカのための海外派兵を実現してアメリカに胸を張るための改正なのである。

 私が安倍政権を危惧するのは,個々の政策自体の是非からではない。そのやり方にある。今の不誠実な手法は民主主義や国民主権の対極に位置するものだ。個々の政策については,その効果や必要性の見地から考慮すべきものもあり、正面から議論され、その提案のされ方次第では、やむを得ないが賛成の余地もあったものもある。

 しかし,いかに日本の社会が政治に関心が薄く,選挙結果=民主主義=政権への白紙委任という誤った理解が常態化しているとしても,それでも政権与党には政策目的を明らかにし、野党と論争を行った上で国民の理解を得るという姿勢は必要であろう。そうすれば,野党も,枝葉の議論や言の葉の問題に拘泥することは脇に置いて、堂々と政策論争の土俵に乗ることができるだろう。それは政党間の利害得失を超えて日本の発展に繋がる。

 そして、与野党間の真摯な政策論争を求める国民は意外なほど多いのだ。

下降線のときにもサステイナブルな社会を

 先週,深夜国会が開かれ,衆議院を予算案が通過した。深夜国会となったのは,逆算してそうなるように厚労大臣の不信任決議案が提出され,時間を測った趣旨弁明が野党により行われたからだ。その合理性に疑問の声はあちこちから上がっており,私もその通りだと思う。テレビを意識した野党のアピール,せめてもの抵抗手段としての手法であることは理解するが,やはり時代は変わっている。日本の行く末を正面から議論する姿こそ,野党に求められているところ。そこをこそアピールし,特定の既得権益に配慮することなく国民全体の利益を考えて日本を変えていく,そこを国民によく理解してもらうための戦略を練ってそれに成功した野党がやがて日本の政治を変えていくだろう。

 

 さて,一昔前,まだ世界遺産になる前の屋久島を訪れたことがあった。縄文杉を目指して夜明け前にトロッコ鉄道の線路を通って山に入り,1~2時間過ぎたころだろうか,小学校の跡地だったというところに着いた。こんな山の中に小学校?と驚いたが,今は1人も暮らしていない山深いその地に当時は1000人以上が暮らしていたと聞いて二度驚いたことを覚えている(あくまで記憶なので数字は不正確かも知れません)。木材伐採と炭焼きが一大エネルギー産業であったことをまざまざと示した戦前の歴史の跡であった。何をどうしても今そこに同じ規模の集落を作ることは不可能であろう。

 同じようなことは昭和にも起きた。北海道や九州では炭鉱がやはり一大エネルギー産業であり,そこに従事する労働者も多かった。しかし,エネルギーが石炭から石油へ移り変わり,また,海外の露天掘りの石炭との競争に敗れたこともあって,炭鉱も廃れた。三井三池闘争などもあったが,いかに政治的なものを含めて抗ったとしても時代の趨勢にストップを掛けることは不可能だったのだ。

 最近,連続してブログを書いた人口減少も,大きな時代の流れの中のやむを得ない趨勢なのではないか?必要を超えて増えすぎたものは減り,減りすぎたものはまたやがて増える。自然界の中では自然な個体数の調整が間断なく起きている。人口の増減もこれと同じく自然のなせるわざでもあろう。国といえども無理をしない方がいい。あくまで個々人の幸せを増大させるという範囲で社会の改善を図る。子どもを持つ家庭では,教育費が無償であれば生活は楽になるであろうし,特に幼児を抱えて働く親にとっては,時短や子どもの急病時に気兼ねなく休める仕事場こそ必要なものであろう。ちなみに私の法律事務所では,時短OK,保育所費用1人分は全額支給,子どもの急病時に休むことは完全にFreeなので,出産で休職された方も子どもが1歳になったら職場復帰することが常態化している。

 こういった社会環境改善の結果として出生率が回復することもあるだろうし,それでも著変はないかも知れない。しかし何事も塞翁が馬,一昔前は人口爆発で地球がもたなくなる,食糧やエネルギー不足が深刻化する,と心配されたが,あの中国でさえ人口は峠を越え,日本と同じく極端な人口減少社会をやがて迎える。CO2排出を含め環境負荷は人口減少と共に減るであろう。また,国の最大の責務は国民を飢えさせないこと。異常気象が常態化しつつある中,気象変動による食糧難が起きることもあり得る。そのような突発事が起きたときに人口があまり多いよりは少ない方が当然対処はし易い。

 AIや自動運転などを組み合わせ,人口減少によって過疎化した地域でも最低限の医療サービス(遠隔診療やAIの補助による看護師などの医療補助職による診療)や交通の確保(無人運転車による都市部との交通確保や食料品なども含めたネットショッピングと配達の確保)によってあまり費用(≒税金)を掛けなくともそこで生活を続けることを選択した住民の生活を維持することが出来るようになるだろう。

 サステイナブル(持続可能)な社会とは,常に成長を前提としたものではなく,人口の増減や経済の好不調を含めた,サインコサイン曲線のような変動のある社会において,下降線のときにも対応した成熟した社会を作り上げて行くことなのである。

 

そうした観点に立つとき,先般の臨時国会で急遽上程され成立した入管法改正案による拙速な外国人労働者導入の急拡大は,あまりに無理の多い政策である。今まで研修や技能実習名目で,外国人労働者を奴隷労働のように働かせてきたことは反省し,大きな改善をなすべきであることは言うまでもない。しかし,外国人労働者を日本に馴染ませる努力やその仕組みの制度設計を後回しにして,人数のみを急拡大するのでは,日本社会に大きな軋轢を生む可能性がある。少なくとも日本語を理解し,多少なりとも日本人と触れ合った経験のある外国人であれば,意外に日本社会の考え方・在り方に共鳴するところはあるし,馴染むところは必ず出てくる。しかし,そのような努力や仕組みがない中で人数だけを急拡大すれば,日本社会とは断絶したコミュニティが形成され,日本人との間で強い軋轢が生じかねない。

もう一つ,日本ではまだ意識されていないが,欧州では,宗教上の理由から,イスラム系移民の出生率が格段に高いため,そう遠くない未来に,欧州の人種構成が変動し,欧州がそれまでの歴史的連続性を持った欧州とは全く異なったものとなるであろうと言われ始めている(詳しくはダグラス・マレー「西洋の自死」)。日本という国の人口構成が大きく変動すれば,今の日本とは全く異なった社会が生まれることになる。そのことを,今の経済的必要との天秤で,国民がリスクを甘受して選択するのであればそれはそれでいい。しかし,先頃の法案導入にあたっては,お世辞にも国民に対してわかりやすく説明や問いかけがなされたとは言い難いし,国民的議論がなされたという事実はなかった。外国人労働者に対する日本語教育などの制度が確立されるかどうか,受け入れ数値が過大とはなっていないか,などを含め未来を見据えた制度の検証が,これから受け入れが始まっていくと同時になされていかなければならない。

 

 最後にもう一つ,忘れてはならないのは,サステイナブルな社会を目指す中には,国や地方自治体の財政の持続可能も含まれているということだ。国民に対する人口減少対策ともなるベーシックサービス(教育費無償化や子育て給付金など)の拡充が,負担の先送りである国債発行に過度に依存してはならない。やるのであれば,消費税・法人税の税率引き上げや,他の支出(よくいわれる防衛費だけではなく歳出全般)の削減を含め,国民全体もしくはどこかの既得権益層に痛みを伴う政策導入として行わなければ真に未来を見据えた持続可能な政策とは言えない。

負担もなく,サービスだけが拡充される,そんな都合のよい話はどこにもない。あったとしたら,必ずどこかに隠された問題があり,やがてその問題が新たなる問題を生むのだ。

異次元緩和の副作用は地球温暖化のように訪れる

 今日は衆議院本会議で予算案の採決が行われる予定。野党はこれに対して厚労大臣の不信任決議案などで対決の構図を作っている。深夜国会も予想されている。圧倒的多数を占める政権与党に対し,野党が仕掛けられる手段は限られているし,日本のマスコミは議論の中身というよりどれだけネタになるか,ということにしか興味がないようなので仕方のないところではある。

 しかし,いつの日か,予算の中身というかそこに凝縮された日本の行く末に関する真っ向からの議論が国会で行われるようになってもらいたい,と切に願うし,周りでもそう思う普通の方は増えて来ているようだ。将来,どこの党がそういった「普通の人」の感覚を汲み取っていき国会を変えて行くであろうか。

 

 さて,去年の通常国会や臨時国会では国の財政のあり方を検討する財務金融委員会でも,日銀の異次元緩和(≒アベノミクス)に対して批判的な質疑が行われることはほぼなかった。日銀の黒田総裁が参考人として呼ばれること自体少なかったし,来られても厳しい質問が飛ぶことはあまりなかった。質問の中には異次元緩和政策の表向きの説明をそのままなぞっただけのものもあった。

  しかし,今国会は少し様相が変わってきた。連日黒田総裁が財務金融委員会に登場し,異次元緩和の副作用について問いただされる機会が多くなった。国民民主党の緑川議員は,低金利政策により,銀行のサヤが限りなく縮小し,特に地方銀行の赤字基調が定着しつつある問題を取り上げられた。日銀の異次元緩和の裏の目的というか真の目的の一つは、国債依存度が高すぎる日本の財政を維持するために、金利を低く押さえつけることにある。いわゆる「金利抑圧政策」である。金利が上がれば、国家予算(歳出)における利払いが膨大となってしまうので、これを限りなく安く済ませるため低金利への誘導を続けざるを得ないのだ。その最たるものがマイナス金利政策だ。

 しかし、これにも副作用はある。銀行の収益というのは、基本的に顧客への貸出金利と預金者への支払金利(預金金利)の差額である。金融抑圧政策は当然民間金融機関の貸出金利も低く誘導してしまう副作用がある。貸出金利の低下により、利ザヤが縮小すれば、銀行は赤字基調にならざるを得ない。例えば、住宅ローン金利は、大手の都市銀行では5年固定で0.5%台という信じられないような低金利だ。数が稼げる大手都市銀行はなんとかなるかもしれないが、地方銀行では貸し出しコストの方が高くつくであろう。銀行の支店廃止や合理化のニュースが報じられ始めているが、その背景には本業、つまり利ザヤで儲ける銀行のビジネスモデルが崩壊しつつある現実が隠されている。そして、大手都市銀行とは異なり、昔ながらの一般顧客からの預金受け入れと地方企業への資金貸し出しに頼らざるを得ない地方の銀行では、連続した赤字を示すところが増えてきているのだ。

 

出典 金融庁HP

https://www.fsa.go.jp/news/30/For_Providing_Better_Financial_Services.pdf

 

 今までは、異次元緩和の副作用のうち、ドラスティックなもののみがクローズアップされ、議論されてきた。その最たるものは国債価格の暴落であろう。しかし、国債価格に関してみれば、日銀が円の増刷(つまり通貨発行)により、買い支えを続けることもある程度までは可能だ。異次元緩和(≒異次元緩和を第一の柱とするアベノミクス)を危惧する声に対し、「いつまで経っても国債の暴落は起きないじゃないか」とこれを狼少年扱いする方も多かった。

 ところが、異次元緩和の副作用は意外なところで顕在化し、日本経済を蝕みつつあるのだ。

 ある程度の年齢の方は記憶にあるだろうが、バブル末期の頃、長銀や拓銀が経営破たんし、地方金融機関で取り付け騒ぎのようなことまで起きた。今回の異次元緩和の副作用は、静かに、しかし確実に進行している。

 もう一つの心配は、異常な通貨発行量の増大により、円安が進むことによってコストプッシュインフレが進み、日本人全般が相対的に貧しくなっていくことだ。円安はよく言われるようにザンビアのようなハイパーインフレーションとして一気に進むとは限らない。第二次大戦後のイギリスのように長期間かけてじわじわと進み、長い間じっくりと国民を窮乏に追い込んでいくことのほうがありうるのだ。現在円安が小休止しているのは、基軸通貨国であるアメリカの量的緩和(QE)が停止にとどまり、縮小にまで至っていないから。しかし景気の動向やトランプ大統領の退任などでいつ再開するとも限らないし、10年20年という長いスパンでみれば、やめようのない日本の異次元緩和が続いていけば、その結果は必ず通貨価値に反映される。

 最近、今の異次元緩和とこれによる副作用は、CO2と地球温暖化に似ていることに気付いた。何事も一直線に進むことは少ない。しかし、ジグザグとした経路をたどりながらも、原因は結果を着実にもたらしていく。気が付いた時にはどうにもならなくなっていた、では遅い。不都合な真実から目を背けてはならない。

 

*地球温暖化の学説が正しいとは限らないが、少なくともCO2の増加は間近に迫っていた間氷期の終わりを当面回避させたようだ。

国策としての少子化対策は個人の選択と対立する。教育無償化はベーシック・サービスに過ぎない。

 少子化は時代の進化の産物であり、自然の流れとして受け止めるべき時が来ているということを先のブログに綴った。少子化という社会現象を客観的に分析したのである。今回は、これを主観的にというか政治的立場としてどう捉えるかについて述べてみたい。

 私は、「国」の必要からの少子化対策という考え方に疑問がある。

 戦前・戦中の「産めよ殖やせよ」は、当時の厚生省の十訓のひとつで、実際には「産めよ殖やせよ国のため」であった。まさに兵士増産のための生産装置か何かのように国民を捉え、道具扱いしていたことをよく表した標語だった。

 現在は少子化対策の見本とされているフランスの少子化対策も、これが始まった1950年代は、人口が戦争の勝敗に直結していた当時の事情を反映した国策であった。1000年以上の長きにわたり戦争に明け暮れていたヨーロッパでは、人口の多寡が戦争の勝敗に直結していた。対ドイツ戦に完敗したばかりのフランスならではの政策だったのである。

 また、これとは逆に人口抑制を図った中国の「一人っ子政策」は、国の現代化のため国民に子どもは一人、という史上稀にみない出産制限を強いたものであった。

 いずれにしろ、国が、個人の選択権の範疇に属することの最たるものの一つである子どもの数にまで口を出してはろくなことは起きない。個人の選択や幸せは、国策の後ろに置かれてしまうからだ。ところが今、政権与党も野党も、国策としての少子化対策に躍起だし、マスコミ・世論もこれに異論を挟んでいない。同じマスコミ・世論は10年以上前に当時の自民党の柳沢厚労大臣が「女性は産む機械」発言をしたときに彼を袋叩きにしたことなどすっかりと忘れている。しかし、国策としての少子化対策とは、本質的にこの発言とさしたる変わりはない。

 

 先のブログで少子化は先進国における自然な(生物学的な因果としても、個人の選択権の結果としても)流れであり、政策として無理にこれに抗うのはいかがか、という趣旨の論述をしたが、その背景には以上のような思索というか価値観があってのことである。

 だから、国策としての少子化対策としてではなく、国民に対するベーシック・サービスの拡充という見地から国が「幼児教育の無償化」や「高等教育の無償化」を採用するのであれば、それは歓迎すべきところというかむしろ政治目標として目指すところではある。ただし、くどいようだがそのためには財政的国民負担とトレード・オフであることを政治家もそして国民も自覚しなければならないのだ。

 嬉しいことに、今日の財務金融委員会では、財政に関する知見を備えた、私が尊敬する政治家である前原氏と麻生大臣両氏の間で、社会保障に関する本音の議論が行われた。前原氏が「日本の中福祉低負担、国民負担率40%でOECD下位に属している状況は、社会福祉政策的にサステイナブルではない」と質問されたのに対し、麻生大臣は、「福祉を借金で賄ってきた。国民負担率42%では福祉を落としていくしかない。福祉を上げていくには国民負担率を増やすことが必要だ」という趣旨のことを答えられていた。

 世の中は基本的に「等価交換」なのだ。

 心ある政治家(正当な評価を受けているとはいえない野田元総理もそのお一人)の方はこの原則をきちんと自分に落とし込んでいる。そんなやり取りが今日国会で行われたことを最後に付言させていただく。

少子化を巡る考察。受け入れることを考えてみる時期が来ているのかもしれない

 今の日本が悪くなっているのか?この疑問について客観的に正しい答えを見つけるのは難しい。ニュースなどで報じられる事象はセンセーショナルで特異的なものであって一般的傾向を表したものではない。かなり前になるが報道ステーションで、古舘キャスターがある少年事件について報じた時に「凶悪化する一方の少年犯罪」とコメントして違和感を感じたことをよく憶えている。実際には、日本の青少年の殺人率は減少する一方で欧米からは不思議がられていたからだ。この手の思い込みは良くあることで、「FACTFULNESS」という海外のベストセラー本に統計結果が駆使されてわかりやすく纏められているので興味のある方はお目通しされたい。

 さて、前回のブログでは、為替マジックもあって、国外から見れば明らかな下降線ながら、国内視点では日本経済は低位安定、政治的不安定を招く若い世代の失業率は人口減少により改善されるばかりなので、リベラル層の強い批判とは裏腹に安倍政権は安定して継続してきたことを分析した。これは,今の日本が過去に比べて特に悪くなったとは評価できないことを反映している。むしろ、今の世の中の良いところは,別に政権の恩恵がなくとも物事が着実に進歩していることなのだ。

 例えば,最近池江選手が罹患されたことから話題となった白血病。一昔前のイメージと異なり治療法は大きく進歩し,不知の病というイメージは当てはまらなくなった。医療にとどまらず携帯電話の普及率からウォシュレットの普及率,アパートや一戸建ての品質の向上まで,科学技術進歩の恩恵で世の中は実は着実に良くなっているのだ。

 したがって,政権与党には基本的に有利な条件が与えられている。

 

 しかし、特に日本の経済及び社会制度に関する未来予測に限ってみれば、やはりこの先楽観できない状況ばかりが目に付く。この難問について与野党あるいはこれからできるかもしれない新勢力がどう取り組むのか。ここは極めて興味深いところである。だが,前々から言及しているとおり,今の国会ではもっぱら「過去の事象」についての議論が主となり,「今これから」や「近未来」についての議論はほとんど行われない。これは政治家稼業に長らく携わっている方や特に政治に強い関心を抱き続けて来られた方以外には,実はかなり不思議な現象だ。企業でこういう議論ばかりしていればあっという間に潰れてしまいそうなところだが、55年体制以来、日本の政治はこの伝統から離れることをしていないようだ(この点を含めた国会改革論議についてはまた別の記事で)。

 そんな残念なところも目に付く国会で,近未来対応の政策が話し合われている課題がある。「少子化」「人口減少」「高齢化」である。これらは密接に絡み合う課題であるが,すべてを一気に論じるのは難しいので,今日はまずは少子化と人口減少について考えてみたい。

 

 この問題については,政治活動を始めた3年位前から懸念を述べていたが,当時はあまり世間的注目は集まっておらず騒ぐものもなかった。しかし,ここ1年ほどの間に急激に問題視されてきた。おそらくは団塊世代の一斉退職もあって労働力不足が深刻化したことにより、喫緊の課題として使用者層にこれが認識され始めたからなのであろう。

 安倍政権も少子化の問題に対し、保育所の無償化・高等教育の無償化などで取り組む姿勢をみせている。野党でも,国民民主党の玉木氏は第三子を設けた家庭に1000万円(コドモノミクス)を付与するという大胆な提言をされている。いずれも取り組みとしてあり得る施策である(ただし、現政権の保育所無償化政策は,むしろ子育て年代の女性を労働力として取り込むことに眼目が置かれた施策であろう)。

 

 いずれにしろ少子化対策には財源の問題が避けて通れない。現政権は,消費税増税分を充てていると主張するだろうが,国債依存が30~40%の現在の財政状況からすれば,消費増税の使途が国債減額に使われなくなるので全体としてみれば、将来の子らは恩恵分の何倍ものつけ回しを受け取ることとなる。この点、玉木氏は堂々と「子ども国債」を財源としてやるべきと述べられており,その正直な姿勢には好感が持てるが,国債に頼る以上やはり同じことではある。子どもたちのことを考えれば,やはり法人税・消費税上げを視野にいれ、将来へのつけ回しを出来るだけ少なくする議論が必要であろう。

 

 少子化対策の問題は財源だけではない。何よりの問題は,フランスの例をみても少子化対策を始めてから効果が目に見えるまでには数十年単位の時間(フランスでは50年)がかかることだ。50年といえば2070年頃。現在の予測では2050年には人口が9500万人となる見込であり,今から少子化対策に取り組んだとしても、減少のカーブが多少緩やかになる程度であろう。

(出典:総務省ホームページhttp://www.soumu.go.jp/main_content/000273900.pdf

 そもそも,何故日本は少子化になっているのか。実は少子化は日本に限らず先進国に共通した現象である。アメリカこそ人口が増え続けているが,これはヒスパニック系住民の出生率の高さ(なんと2.96!)やメキシコや中南米から大量の移民があるアメリカ独自の事情(是川夕・岩澤美帆「増え続ける米国人口とその要因」)によるもの。長年続けた一人っ子政策をようやく廃止した中国でさえ,若い世代は子どもの数を増やそうとはしていない。

 中国も日本も、そして欧米も共通したことであるが、教育費(授業料だけでなく,スイミング,英会話,ピアノ,スポーツクラブそして塾など習い事費用もある)の費用負担は先進国の家庭では極めて大きい。また、個人(あるいは夫婦で)の楽しみの追求は、子育てによって中断せざるを得ないが、子育て期間が終了すればこれは再開できる。一定の経済的レベルに達した国民にとって、子育てと人生の楽しみをバランスさせた結果が子どもの数は少なくていいという結論なのだ。

 これらは、あくまで現代的事情による動機の面での少子化だが、自然的・生物学的な面、すなわち自分たちの遺伝子を次の世代に残すという戦略の面でも、現代社会では子どもの数が少なくてよいという子育ては、理に適っている方策だ。

 例えば近世1600年代のイギリスにおける統計学の創始者ジョン・グラントの調査によれば、当時の6歳以下の死亡率は36%にものぼっていたという。そうであれば子どもをたくさん産んで生き残る数を確保するという戦略は、自分たちのDNAを次世代に残すために必須の戦略となる。

 しかし、現代における医学や食料事情の好転は、状況に劇的な変化をもたらした。ユニセフによれば日本の5歳未満の乳幼児死亡率は2016年で0.3%に過ぎない。したがって、昔のように多産して生き残る子どもの数を増やすという戦略をとる必要はなくなったのだ。それよりも、子どもが他者との社会的競争に打ち勝っていけるよう、そこに投資をつぎ込むという方が子育て戦略としては合理的なものとなる。

 

 このような状況に鑑みれば、ちょっとやそっとの政策的配慮では到底少子化は改善できないことは容易に理解できるだろう。子どもへの政策的投資の多寡によって出生率が変化するというOECDの調査結果もあるが、いずれにしろ出生率2以下での話である。

 となれば、少子化は先進国に共通した現代的傾向としてこれを受け入れるという考え方も選択肢としてありうるものとなる。

 無理な投資は避け、少子化を前提とした国家形成を考えた方が合理的な政策形成だと言える余地は十分にあるのだ。

 また、見方を変えれば、少子化は先進諸国でもっとも問題となる若年層の失業率を限りなく減少させる有効な要因となる。少子化にも都合のよい側面があるのは事実だ。

 

 ただし、日本の場合には年金が積立方式ではなく賦課方式なので、この方式を維持する限り、少子化による人口減少が続けば高齢者世代の年金=生活が成り立たなくなる。

 実はこの点についても解決策が提言されているが、それは次のブログで。