政策に関する正確な説明は与野党問わず必要。扇動はやめよう。

消費税撤廃を訴える新党を応援する一部ジャーナリストが、立憲民主党と国民民主党を批判している。誰もが自分の主張を自由に行い意見を戦わせるのが民主主義なので、批判についてとやかく言うつもりは一切ない。ただ、問題は、その批判の根幹部分が法制度に対する誤解(意図的かどうかは不明だが)で成り立っているところだ。

彼らの主張を簡単にまとめれば、輸出企業は消費税分の「輸出戻し税」が国庫から入るので、消費税が上がれば上がるほど黙っていても儲かる、だからトヨタ自動車労組出身の連合事務局長も消費増税を要請した、労使一体の連合は経団連の手先、先の両党も同類との批判だ。

しかし、輸出戻し税とは、当該輸出企業が、下請業者・部品納入業者などに自ら支払った消費税が戻って来ているだけ。

消費税は、本来、最終消費者が負担する仕組みである。マクドナルドなどのサービス業でも、原材料を仕入れる際には仕入れ価格に、当然、消費税が含まれている。その分を全部販売価格に転嫁しているので、負担しているのは最終消費者。

ところが輸出品の場合には、海外の事業者や消費者に負担を転嫁できない。だから自分が支払った分が還付されているだけ。仮に消費税が廃止されれば、下請業者に消費税分を支払うこともなくなるので還付もなくなる。損も得もないのだ。

無理やり輸出業者に得があると説明しているWEBを見ると、下請け企業に無理な値下げを迫り、消費税を実質的に負担させているので輸出企業はやはり儲けている、と説明したりしている。そのような実態もあることは確かで下請け・納入業者に消費税分負担を押しつける行為は政府・税務当局によっても厳しく指導・是正されてきた。だが、それは垂直的な企業構造の問題であって消費税があってもなくても同じこと。税の仕組みとは本質的には関わりはない。

安倍政権の問題点は、政策の真の狙いというか動機を国民に正しく説明していないこと。それを批判している野党側も政策を正しく説明することは大事だし、相手を批判する以上よりその姿勢は必要。イギリスでは、ブレグジットを問うた国民投票の際に「週に3億5000万ポンドEUに支払っている」と不正確な説明を行って国民を扇動したという民間人からの告発を受け、元外相が訴追されている。日本でも、政策に関するコレクトネスは当然必要。不正確な情報で国民を煽ることは、仮にある勢力に選挙で有利となったとしても、国民の未来を損ねるだろう。

先から眼を逸らすな

ロイターによれば麻生財務大臣が、自民党の委員の消費税上げ凍結を求める質問に答えて「国債の格付けに影響が出る可能性があり、格下げの覚悟も必要」と答弁したという。世の中にポピュリスト的な論調が多い中、この答弁を評価する者は少ないだろう。しかし、ここで改めて強調しておく。庶民にとって真の脅威は、2%の消費税上げではない。日本への信認失墜によるインフレである。

ベネズエラで今何が起きているのか?1990年代のイギリス、韓国で何が起きたのか?MMTの怪しげな理論を信奉する与党議員や新党は、おいしい話を庶民に撒き散らし、日本をどこに連れて行こうとするのか?消費税凍結を訴える野党や与党の一部議員は、子育て支援政策の財源をどこに求めるのか?増税を悪と論じるのは、政治家や政党にとって容易い。だが、貴方達はその結果がもたらす未来に責任を取れるのか?

ランダムウォークのできる日本に

日本が財政規律を無視してまで拡大した財政政策を30年も続けたにも関わらず、そして、ここ6年は異次元緩和という通貨大量供給政策を行なっているにも関わらず、日本社会が長期低迷から抜け出せないのはなぜか?
 
数字の分析は幾つもなされ、経済が回復しているのかどうかについて盛んな議論が行われている。しかし、間違いなく日本経済は縮小過程にある。生活実感から同意される方は多いだろうが、外から日本を見ればその事実は動かせなくなる。端的にドル建てGDPを見てみれば良い。経済大国への道を駆け上がってきた日本の一つのピークは1995年の5兆4491億ドル。そこから減少に転じ、4兆ドル台で推移してきた。2007年のリーマンショック後、FRB、ECBが極端な量的緩和政策を取ったのに比べ、緩和競争に乗り遅れた円の独歩高となり2012年1ドル75円という史上最高値を付けたことによりドル建てGDPは嵩上げされて6兆2032億ドル と1995年を更新したが、日銀が異次元緩和政策でFRB、ECBと共同歩調を取ったことによって円安が進んで再び4兆ドル台に。
つまり、95年から25年間もの間、経済拡大の歩みは止まったままだ。
日本の衰退がハッキリと現れているのは、統計数字に現れない質の面。
1995年、米経済紙フォーチューンのグローバル500社において、日本企業は149社を占め、アメリカ151社に次いで僅差の2位。まさにジャパンアズナンバーワンの時代であった(宮崎信二「フォーチュン・グローバル500社」にみる日本企業の衰退(上))。しかし、2018年では52社と3分の1まで激減。日本経済の衰退は、質量共にというか、質先行で進んでいるのだ。
 
この「質」の衰退は深刻だ。いくらアベノミクスでお金を注ぎ込んでも、回復のしようはない。そこで思い起こされるのが1970年代、80年代の激しい日米経済摩擦。今の米中貿易摩擦のようなことが年中行事で繰り広げられていた。その時も政治的に仕掛けていたのはアメリカ。しかし、アメリカの経済再生は、報復関税やドル安協調誘導で成し遂げられたのではなかった。USスティールやGM、パンナム、AT &T、Kodak、ウォルマートなどの既存の大企業に代わり、Microsoft、Apple、NIKE、Facebook、そしてAmazonなどの新しく、しかも革新的な大企業が次々と生まれ、世界に再び覇を称えているのだ。
  このような企業の創造は、金融政策(マネー供給量の拡大)や、拡張的財政政策(公共投資、減税など)では決してできない。日本の失われた20年、いや40年は、高度経済成長時代と同じ拡張的財政政策のみを継続しーいわば経済への量的手当―、質的手当を怠ってきたことによって続いている。
 
  新しく、創造的な企業が生まれるのに必要なものはなんだろうか。
ランダムウォーク(参照・「仕事は楽しいかね?」デイル・ドーテン著)である。企業経営の経験がある方ならすぐに頷くところだろうが、狙ってヒットするものは少ない。特に大ヒットは、偶然の産物であることが多い。ましてや世の中にレジューム・チェンジをもたらすような革新的な発明、発見、あるいはビジネスモデルは、数多くの、別々の人間による試みの中から、意図的でないふるいによって選別されて生まれるものだろう。単細胞生物から人間への進化は狙ってなされたものではない。ランダムな突然変異で生まれた新種が、意図的ではないふるいー自然淘汰―にかけられることにより、進化は生じた。企業も似たようなもの。星の数ほどのビル・ゲイツ、スティーブ・ウォズニアック、マーク・ザッカーバーグの中からMicrosoft、Apple、Facebookが淘汰され、あるいは他を淘汰して生まれてきた。しかも、彼らは、世界に覇を称える大企業を作ろうとしてMS−DOSやMac、Facebookを造ったのではない。自分の好きなこと、やりたいことをやった結果が製品となり企業となりやがてそれが世界有数の大企業になったに過ぎない。しかも、彼らがやりたいことをやったのは、いずれも学生の頃である。
 
  翻って今の日本の学生に彼らのようなランダムウォークが許されるであろうか。もっと重要なこととして、ランダムウォークが出来るであろうか?
  いずれもNOである。
最初のNO(ランダムウォークが許されるか)の原因は、極端なまでに流動性のない今の日本の労働市場が原因である。一部の例外を除き、正社員と非正規社員の待遇には歴然とした格差があり、しかも正規➡︎非正規という流動性はあっても、非正規➡︎正規という流動性はないに等しい。そして、正社員への採用は未だに新卒重視。いかに有名大学出身者であっても、最初の新卒時に正社員というレールに乗り損ねると、残りの人生での挽回が困難であることがはっきりとしている。これでは、いかにアイディアを持った学生であっても、回り道をしてみるという冒険は出来ない。
次のNO(ランダムウォークが出来るか)の原因は、詰め込み過ぎで自由にモノを考える時間や羽目を外すことを許さない高等教育課程にある。今の進学高の常軌を逸した宿題の量をみなさんはご存知だろうか。毎日毎日宿題をこなすだけで精一杯。また、監視の目と批判の目が行き届いた現在、高校生ですら友人の家に集って羽目を外す自由もない。冒険心や無駄かもしれないことにでもチャレンジする心の余裕というか隙間が塞がれてしまっている。
 
私は、日本社会がもっと生き生きとしたものとなることが、日本を経済的に再生させる近道だと思っている。財政政策や経済政策をいくらやっても、国内的には人口オーナスで需要自体が大きく減少するという基礎条件は変えられない。国外では、人口ボーナスを得て、次の日本、次の中国となることを待ち構えている国々が東南アジアを中心に目白押しだ。
アメリカの没落と再生を見てきた我々は、なぜ彼の国が再生を成し遂げて以前にも増した国力を得るに到っているのか、そこに思いを致すべきであろう。
 
具体的な提言は以下の2つ。
1. 労働市場に流動性を確保する。再チャレンジがいつでも出来る市場に変えていく。そのためには、正社員、非正規社員間の差別を法的強制力をもって撤廃する。その差は雇用期間の縛りが双方にとってあるかないかだけにする。これが進めば逆に解雇規制もそれに応じて緩和されるだろう。
2. 高校での宿題を全廃する。特に高校、大学といった高等教育について、主要先進国のカリキュラムを徹底的に検討し、自由な発想を持つ人材を育むための教育に変えていく。
 
教育に関して若干付言する。そもそも、今の時代は上からの指示にいいなりの大量の企業戦士が必要であった時代ではない。企業創造を平気で行えるバイタリティと創造性を備えた「個人」を育んでいくことが大事な時代だ。今の資本主義は、どこまで知的な先進性を備えたアイディアを持っているかが勝負の時代に進化している。目的や目標が変われば方法も変えることは当然だ。
 

消費税率上げ延期や消費税廃止は国民生活を救わない

  10月に迫った消費税上げ。米中貿易摩擦による景気動向への懸念もあり,賛否が未だに喧しい。そして,延期にとどまらず廃止まで訴える新勢力もあり,その新勢力の集いに生活苦を訴える国民の声が幾つも寄せられたとのことだ。そこで問いたい。消費税率上げや消費税廃止が本当に生活苦を訴える国民の生活を救うことになるのか。

 

 アベノミクスの成果を強調する政府主張とは異なり,国民の生活実感は良くない,ということには完全に同意する。円安により,生活必需品の価格は徐々に上がっている。一方では賃金上昇は限られており,未だに民間給与所得者の平均所得(男女計)は1997年(平成9年)が467万円でピークのままであり,ここ数年は回復傾向にあるとはいえ,2017年(平成29年)でも432万円にとどまっており,35万円も下落したままだ(国税庁調査)。

 一方で,食料品やエネルギーを含めた消費者物価指数(総合)は97年が99.5であるのに対し,2017年は100.4と僅かではあるが上昇している(ただし,生活実感では物価は食品を中心にもっと上昇しているが)。可処分所得が減り,支出は増えている訳で,生活が苦しくなっている,という国民の実感は数字的にも正しい。また,景気動向指数が連続して悪化し,米中貿易摩擦が激化している情勢からも,景気の先行きが混沌としているのも事実だ。

 

 だが,それでもなお,消費税率上げ延期や消費税撤廃は行うべきではない。行えばかえって国民生活が窮乏化するからだ。

 今回の税率上げの使途(子育て支援や財政収支改善等など毎年継続してかかるもの)は既に定まっている。したがって,財源として予定されていた消費税率上げを見送れば財源不足が毎年生じ,これを埋めるには毎年それに相当する赤字国債を発行するしかなくなる。日本の財政収支は世界的にみても最悪な状況であるのに,財政収支の赤字幅は拡大し,政府債務残高は増加する。そして,このような財政的なルーズさを示せば通貨の信認は傷つき,中長期的に円安の方向に向かわざるを得ないだろう。

 ご存じのとおり,日本は輸入大国でもある。主要食料品やエネルギーがほとんど輸入で賄われているだけでなく,物価安を支えている安価な衣料品や各種日用品は,ほとんどが発展途上国からの輸入品だ。したがって,通貨安,円安が生じれば当然インフレ,コストプッシュ・インフレに結びつく。

 

 簡単な計算をしてみよう。今回の消費税率上げがあっても,国民負担増加はずっと2%のままだ。1個1000円の製品だとして,税込み製品価格は1000×(1.10)=1100円。8%のときと比べて20円負担が増えるだけだ。5年後でも1100円だ。

 しかし,通貨安が生じ,毎年2%のコストプッシュ・インフレが生じれば,1.02×1.02×1.02×1.02×1.02=1.1。5年で物価は1.1倍になる。5年後の製品価格は,税込みで1000×1.1×1.1=1210円。5年後には消費税率を上げたときよりも110円も高くなってしまう。これが,食料品,ガソリン,日用品のほとんどすべてで生じてしまうのだ。どちらが国民・庶民にとってダメージになるかはいうまでもないだろう。ちなみに,需要が引っ張るデマンドプル・インフレと違って,通常コストプッシュ・インフレの時は賃金は上昇しない。物価ばかり高くなるので庶民の生活はより苦しくなる。しかも,通貨の信認がいったん失われてしまえば,円安がどこまで進かわからない。インフレがどこまで上昇するか,予想もつかないのだ。

 

 国民,有権者に対し,政治家がおいしい話をするのは楽だ。ましてや負担は軽減し,サービスは向上させる,挙げ句の果てには現金をばらまくと言えば喝采を浴びることもあるだろう。「選挙に勝つために」必要だとしても,果たして,そんな魔法のようなことが出来るのか?答えは「出来る」。赤字国債の発行額を拡大すれば確かに出来る。だが,必ず副作用はある。

 

 そんなおいしいことは出来ないし,やるべきではないから,日本を除く主要先進国では財政収支に関し厳しいルールや法制度が整備されている。

 アメリカでは「ペイアズユーゴー」という原則がある。これは,義務的経費の歳出を伴う法案や修正案を提案する場合いは,別の歳出削減や増税での財源確保を義務づけ,収支のバランスが維持されるようにするルールである。簡単に言えば,「使うときにはお金を用意しろ」ということ。当たり前と言えば当たり前の原則だ。

 これ以外にも,裁量的経費に上限を定めるキャップ制,そして,国債残高上限制度がある。これは,100年前の1917年に定められた第2自由公債法による規制である。債務,つまり国債残高に数値的上限が予めさだめられているので,債務上限に達した場合,その都度議会の承認(上限適用の凍結や猶予,上限上げ)が必要であり,得られないと支出が出来なくなる。政府機関が一時閉鎖されたり,極端な場合には米国債がデフォルトに陥ることもありうる。オバマ政権時代,一時の日本のように上下両院でねじれが生じており,毎年のように「財政の崖」が問題となったが,その原因がこの制度にある。トランプ政権でも,昨年これで政府機関の閉鎖が話題になり,トランプ大統領が政府職員にハンバーガーを山のように差し入れしていたのが報じられたことをご記憶の方もあるだろう。

 これらの制度以外にも,オバマ政権時の2011年には予算制限法(Budget Control Act)が制定され,10年間で2.1兆ドル(231兆円)もの歳出削減が行われることとなった。1年あたり23兆円である。また,同法では,超党派のスーパーコミッティー(共和党,民主党から3名ずつ)が設置され,ここで合意が得られなければトリガー条項(sequestration(シクストレーション))が発動され,連邦予算が一律10%カットされるという大変厳格な規定もあった。これらで,国防費が10年間で8500億ドル削減されることになったのだ。

 

 EUでは,もっと厳しいルールがある。まず,「財政収支を均衡する,または構造的財政収支の赤字のGDP比をマイナス0.5%以下とする」という大原則を,各国憲法など拘束力のある永続的な法で定めることが各国に求められている。この大原則を遵守できるよう,各国は予算案などについてEUからその健全性の評価を受け,そこから逸れていると評価された場合には勧告がなされる。

 そして,財政収支財政収支の赤字のGDP比がマイナス3%以上である、または債務残高対GDP比が60%超であるにもかかわらず一定ペースでの財政健全化が見込まれていない場合などには、今度は是正的措置として、勧告がなされ、当該国がその求めや警告に応じない場合は制裁金の支払いが命じられる場合すらあるのだ。

 実際にも昨年,債務残高GDP比130%の現状にあり,60%ルールを越えているイタリアが,財政収支を前年のマイナス1.6%からわずか0.1%,つまりマイナス1.7%と悪化させる予算案を組んだことに対し勧告がなされ,結局イタリアは予算を組み替えるまでに至っている。僅か0.1%財政収支を悪化させる予算案というだけで予算の組み替えを事実上強制されたのだ。

 翻って日本。財務省資料によれば政府債務残高は、対GDP比236%。イタリアの比ではい。また,財政収支の赤字も,EUと同じく社会保障基金を入れた分で計算するとマイナス4.2%。これまたイタリアの2倍以上に達している。

 

 ここまでの解説をご覧頂いた方にはご理解いただけたと思うが,各国とも財政収支均衡や政府債務残高の増加を防ぐために,明確な数値上限やペナルティーを設けた実行性のある法制度整備がなされている。

 しかし,日本には事実上,法的・制度的な仕組みは存在しない。本来例外であるはずの特例公債の発行は,昭和50年~平成元年,平成7年~現在と,もう数十年以上常態化してしまっている。

 だからこそ,MMT理論提唱者に「日本が見本」とまで言われてしまっているのだ。

 

 「財政収支均衡を目指す」という世界の常識について,与野党共にルーズになってしまっているのが残念ながら今の日本の現実だ。それは,政治家,政党に限らずマスコミも同じ。だからこそ,冒頭述べたように財政均衡や「ペイアズユーゴー」など完全に無視した主張を述べる政治勢力が一定の人気を呼んでいるのだろう。だが,これは,「苦しんでいる」国民を将来的に「もっと苦しめる」ことになる。

 お金を払うことはいらない、だけどサービスの提供は受けられる。提案する方にとっても,される方にとっても夢のような約束だ。そして,1つだけそれを成り立たせる方法がある。それは、国が国債を発行し、それを中央銀行が円を発行して買い取って国の財政を賄うやり方である。つまりは財政ファイナンス。そうすれば、国民は税金を納めなくて済むわけだが,しかしそんな魔法のようなことは,一時は成り立つとしても,いつまでも成り立つわけがない。これを始めたが最後、何が起こるのか。それは果てしない円安。そんないい加減な国の通貨など誰も信用しなくなるからだ。

 アメリカなどは石油でも農業製品でも自分の国で賄えますから多少ドル安になっても困ることはありません。ところが日本はどうでしょうか。皆さんが使っているスマホも輸入品です。ステーキやハンバーガーに使われている牛肉も、石油も輸入です。円が安くなって、今1ドル110円のものが200円になったらどうでしょう。皆さんが買うもの全てが2倍の値段になるのです。消費税が2%上がるのと、物価が2倍になるのと、どちらが皆さんの暮らしを直撃するでしょうか。

 以上について,5月21日に開催された財務金融委員会で質問をした。麻生財務大臣は,子育て支援,社会保障の財源についてペイアズユーゴーという当たり前の考え方をとるべきだ,という私の質問に対し,「全世代型の社会保障制度というものの構築に向けて、いわゆる少子化対策を含めまして、社会保障の充実とそれをやれる安定財源の確保というものをどうやってやるか、これはどうしても必要なものなんだと思ってこの消費税というのを導入させていただくことに決めております。」と明快に答弁された。

 また,通貨安になると,インフレで一番困るのは庶民,国民なので為替水準安定維持のためにも,財政規律の確保が欠かせないのでは,という質問に対しては,「通貨というか為替の安定というものを実現する上では、これは円に対するというか通貨に対する信認をきちっと維持していくということにまさるものはありません。

 したがって、通貨に対する信認というのは、その国の経済のファンダメンタルズというものの強固なものとか、また財政規律というものに対する維持とか、何となく、最近はやりのMMTに行くんじゃないかとかいうような気を持たれないような感じにしておくとか、いろいろな表現があるんだと思いますけれども、総合的なものによるんだと考えておりまして、引き続き、これまでの経済再生と、そして財政健全化という取組というこの二つのものはきちんとして、二律背反している部分も確かにあるんですけれども、そういったものを十分理解した上で、通貨の信認維持というものに努めていかねばならぬと思っております。」とお答えになった。

 その言葉を,国民のために信じたい。通貨の信認維持のため,財政規律を維持しようと主張することは,財務省のも差し金でも,財務省の陰謀でもない。経済的に弱い者を守るために欠かせないことだからだ。

 「国」というのは国民のものである。日本という国は有権者のもの、国民1人1人ものにほかならない。国というのは,運営者である国民が、費用としての税金を納め、その対価としてサービスを受けているコミュニティなのだ。サービスには必ず負担が伴う。日本という国を運営しているのは私達国民なのだから、当然私達がお金を払って運営すべきものなのである。欧米では国民にその自覚が強く,きちんとしたルールが定められているのであろう。私達も,国を運営している一員である,との当事者意識を持つべき時が来ている。運営の成功も失敗も,全部自分に跳ね返ってくるからだ。

内閣支持率48%解散はありえない。報道の質の劣化

    今朝のNHKニュースは,「内閣支持率堅調 与野党から「衆参同日選」との見方」と題して,世論調査で内閣支持率が48%と好調だったことを理由として解散が強まったと繰り返し報じていた。しかし,その好調さというのも前月から僅か1ポイント上がっただけ。にもかかわらず,NHKは「今月の内閣支持率が48%だったことをめぐり、与野党からは安倍総理大臣が夏の参議院選挙にあわせて「衆参同日選挙」に打って出る可能性が高まっているとの見方が出ており」と大々的に報じているのだ。

 

 いったい今のNHKには,公正な報道機関として,視聴者にしっかりとしたものの見方を伝えるという責任感があるのだろうか?

 現状,衆議院の任期を2年余も残した段階であると共に,与党が絶対多数を握って安定した政権運営を行っており,国民に信を問うべき状況にはない。また,政策的に緊急に浮上した争点もない。したがって,解散の必要性は見受けられない。解散の口実として時折巷間噂に上る消費税凍結については,「リーマンショック級の事態」が生じているか否か,という高度に政治的な情勢判断の問題であって,税率上げ自体は法定事項である。その使途も既に選挙の争点とされて閣議決定済みの幼児教育無償化などの財源とされることが決まっており,その是非について改めて選挙を行い民意を問う段階ではとうにない。解散の必要性など皆無である。

 

 そもそも,内閣総理大臣の任意的裁量に基づく解散は,憲法7条を根拠にしたもの(内閣不信任案に対抗するための69条解散は,任意的裁量ではない。あくまで内閣不信任案可決が条件)。ところが,憲法7条とは,憲法4条の規定を受けて天皇の国事行為を列挙したという体裁である(「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」)。その3号に衆議院の解散が挙げられているのであるが,文理解釈からすれば,この規定で内閣(=内閣総理大臣)の解散権を認めたと解するには少々無理がある。

 そのような背景があるため,仮に議院内閣制の趣旨などから7条解散が許されると解する立場にたったとしても,単に「内閣支持率が堅調で選挙に有利」というだけで恣意的な解散が行われたとすれば,明らかに裁量権の逸脱にあたるだろう。

 

 以上によれば,「内閣支持率が堅調」という理由だけで解散することなど許されるはずもない。そのようなことがあったとしたら,それは党利党略の極みであり,解散権の乱用である。このことは,多少の法的知識を備え,かつ現在に至るまでの議論を知っている者からすれば明らかである。にもかかわらず,批判的論調を加えることすらなく,さも当たり前のことであるかのように堂々と報道したということは,報道機関として「物を考えていない」ということの自白に等しい。

 

 念のため述べれば,今回の報道は,安倍首相ないしは安倍政権の閣僚から出てきたものではないので,安倍首相もしくは政権中枢に問題があるというつもりはない。問題は,そのような「党利党略的」な解散がさも当然であるかのような報道の仕方であり,付言すればそれについて,きちんと批判しない与野党各党のコメントにある。

 内閣支持率解散,党利党略解散が当然と,仮に政権中枢が発言したとしたら,それは大失言として報じられるであろう。ところが,報道機関自身がそのような報道を根拠も示さず行うことの問題点には,何も気づいていないし,批判の声もあがっていない。これが報道機関の劣化といわずして何というべきなのであろうか。

長期停滞は金融政策、財政出動では抜け出せない。活路は教育と労働市場の流動化にある。

ローレンス・サマーズとベン・バーナンキらが長期停滞論争について語った「景気の回復を感じられないのはなぜか」を読んでいて、ふと気づいたことがあった。彼らは、アメリカの経済学者らしく客観的な数字を挙げて、根拠に基づく議論をしている。だが、逆に言うと、数字に現れない経済的要因を見落としているのではないか?そして、それが日本における「長期停滞」の原因ではないか、と。

 

資源国ではない国が、発展途上段階にあれば、経済発展を決める要素は単純だ。発展段階であるが故に通貨は安く、人件費も安い。当然、輸出には有利な価格条件となり、単純な製造業は国際的に優位となり、貿易は増大し、国富も増大していく。

日本においても、戦後しばらくの間の発展は、この例に習っていた。繊維産業であったり、鉄鋼の板や履物、ミシンなど比較的単純な製品を圧倒的に優位な価格でもって輸出攻勢をかけ、発展の基礎を築いたのだ。

しかし、国富の増大に連れ、通貨は高くなり、人件費も高くなり、産業構造に変化が生じる。そこで成長にストップがかかり、次の段階に進めない国も世界には多く見られる。

これに対して日本が鉄鋼➡︎家電➡︎自動車の輸出という次の段階に発展していったのは、日本人の勤勉さに加え、モラルや治安が確立していた上に、教育制度が画一的ながらも良く整備されており、段階的に高度化していった製造業を支える勤労者を生み出すことに適していたからだろう。価格的条件では同じような状況にある国は複数あるだろうが、その中でも勝ち負けはある。その理由は数字以外のところにあるはずで、このあたりは、数字を分析することを主体とする経済学からは出てこないところだ。

 

さて、平成に入り、バブルが弾けた後、日本経済が長期停滞に陥っているのは周知のとおり。その原因については、人口減少時代に入ったことによる人口オーナス(人口は増える時代には自然な需要増や労働生産年齢人口増加などで経済がプラスに発展していくのを人口ボーナスというが、その逆で人口減少が経済にマイナスに働くことを人口オーナスという)が主因であることは間違いない。

それと共に、時代の進歩によりそれまでになかった需要減が生じたことも停滞の原因であろう。これも数字には現れず、経済学の俎上に載りにくいものである。大まかに言って平成10年頃まで、情報通信がここまで発達する以前は、遊びといえば外に出ることであった。冬はスキーやスノボ、夏は海水浴やスキューバやサーフィン、そして休日の社会人はゴルフであった。それらのレジャーには車や様々な用具が必須で、かつ友人らと集って出かけることが多いものであった。当然外に出れば外食や交通費など経済に落とされるお金も多く生じる。また、映画は映画館で見るものであり、漫画や本も本屋で買うものであった。映画館や本屋があれば、従業員の雇用も生まれ、テナント料も発生していた。それが、若者だけでなく中年層に至るまで、遊びといえばゲームが主体となり、そのゲームもゲーム機を買い、ソフトを買って楽しむゲームからスマホとアプリ以外は何もいらないスマホゲームに変わり、映画もNetflixやAmazonなどで家で見るものに変わってきている。しかも、Amazonプライムなら視聴料さえかからない。現代というのは、進歩によって消費が減少する時代に突入してしまっているのだ。

そして、もう一つ、薄々感じてはいたが今回改めて気づいた経済学に現れない要素がある。それは、先進諸国においては、新たなステージとして高度の情報・知識集約産業の時代を迎えているが、これに適応するためにはそれに適した社会制度や教育が必要であって、これらを備えた国が勝ち抜いて行っているのではないか、ということだ。当たり前、と思われる方もいるだろう。だが、日本の教育制度や社会制度が、現在の新たな段階に入った資本主義というか経済発展の段階に対応しておらず、このままではその理由から負け組となる、と指摘する声はまだあまり聞かない。

 

今の日本の教育制度は、画一的かつ高品質な製品を生産するのに向いた人材を大量に供給するための教育システムのままであり、新しい段階を迎えた資本主義や産業に適応していない。だからここ20年近く、一時は世界をリードしていた家電製品などの分野でも韓国や台湾などの後発組に追い越されて完全に置いていかれ、また、世界に出て行ける全く新しい創造的企業(例えばApple,Amazon,Facebook)が育っていないのだ。唯一の勝ち組といっていい自動車産業でさえ、電気自動車化そして運転自動化時代を迎え、転落する恐れも大きいと囁かれているのも周知のとおりだ。

 

次に、日本の社会制度において、根本的に創造的企業創設に向いていないところを指摘しよう。それは終身雇用制度とこれに付随して判例上築き上げてこられた厳しい解雇規制、その結果である労働市場における流動性の低さだ。

大企業だけでなく、企業や街の小売店の存続が永遠に思えた昭和の時代ははるかに遠い。勝ち組と思われた企業があっという間に負け組になり、あるものは潰れ、あるものは外資に売却される。シャープやダイエーなどの例を出すまでもない。企業の存続というか寿命が短くなり、かつその中身も変転を余儀なくされている。ところが、解雇規制は昭和のままであり、それらを反映して非正規雇用が増大する一方で、正規・非正規労働の間に階級差別とも思われるような厳然たる差異が残されたままだ。労働市場において、流動性は、非正規相互間でこそ確保されているものの、非正規➡︎正規の流動性は無いに等しい。したがって正社員に一度ならなかったら、その後も不安定な就職先しか探せない。だから、若い才能がチャレンジングに新しい企業を自ら興すということが一般的にならない。大学生のガレージから始まったようなMicrosoftが出て来にくいのだ。

 

さて、現在の日本の構造的不況というかデフレに対して日銀が取っているのは国債の大量買い入れやゼロ金利政策でマネーの供給量を増やすというマネタリーな金融政策である。

政府がとっているのは国債大量発行に支えられて歳出を増やすというケインジアン的な、あるいは公共投資を重視するサマーズ的、インフレになるまで財政赤字は気にしなくていいというMMT的な政策だ。

しかし、いくら金融・財政的手当をしても、これから50年以上続くことは確実な日本に課せられた負荷である人口オーナスは変わらない。これらの政策は対症療法とは成り得ても根本的な解決策にはならない。そして、未来への負荷は増していく。

 

 それよりはむしろ、経済学以外のいわば定性的分析に基づき、教育システムを徹底的に見直し、兎にも角にも創造性を磨き育てるシステムに変えていってはどうか。

そして、新しい芽を育ちにくくさせていると共に、日本の社会に分断を生んでいる労働市場における流動性の欠如を無くすための抜本的対策に取り組んだらどうだろうか。具体的には、北欧のような失業手当や再教育制度を伴った解雇規制の緩和か、あるいは法的な正社員・非正規社員間の差別撤廃(ボーナス、退職金、昇進全ての面)のどちらかの方策が考えられる。日本の社会に受け入れられやすいのは後者だろう。

 

異次元緩和や公共投資などの従来型思考では、人口構成において大きなハンディを負った日本は世界で勝ち抜いていけない。待っているのは負け続ける未来、今まで見下していた近隣諸国に次々と追い抜いて行かれる世界だ。

日本や日本人の持つ勤勉さや正直さという特性を生かし、才能で勝負できる社会に作り直せば、勝機はある。やるしかないのだ。

人類の進歩,時代の変革に合わせた防衛力整備を。そして,9条,徴兵制を巡る議論について

  ずっと考え,悩んでいる問題がある。防衛-国防を巡る諸問題だ。個人的な思いを述べれば,人が戦争の場に駆り立てられ,そこで死んだり障害を負うようなことは絶対に受け入れられない。だが,世界に紛争が絶えない現実を見れば,「戦争」が起きる可能性を無視することはできず,その可能性を前提とした防衛の在り方について考えることを避けて通ることはできない。

 一方で,戦後75年を経ようとしている現在において,占領下において制度設計された当時の状況と大きく異なる時代の変化と進歩があり,これを踏まえた議論も必要となろう。ここでは,あくまで試論として防衛に関連する事項について述べてみる。

 まず最初に挙げなければいけない意外な事実がある。それは,大規模な,国家間の戦争が減少し国家間の戦争による死者は減少している,という事実だ。あのイラク戦争でさえ,米軍を中心とする有志連合軍の死者数は2003年から2011年の合計で4804人であったという。民間人の死者はこれよりも桁違いに多くNATIONAL GEOGLAFICの記事によれば,同期間の合計で推計50万人とされている。

 この数十万人規模の死者を決して少ないとは思わないが,あくまで比較の問題として,数千万人規模の死者をそれぞれ出した第1次世界大戦,第2次世界大戦とは大きく異なる。数百万人規模の朝鮮戦争,ベトナム戦争と比べても減少している。戦争による死亡者数が減少してきているという事実は歴史上重要な人類の進歩といえよう。

 また,地域的な偏りもみられる。現在,世界における戦争や紛争は,中東・アフリカでの戦争・内戦に限定されつつある。

 その大きな理由は,50年,100年前と異なり,領土や領民が富を生み出す時代ではなくなってきているからだ。その昔,農業が産業主体であったころは,富=農地と農民が産み出すものであり,それゆえ富=領地とそこに所属する領民(農民)であった。ヨーロッパで1000年間戦争が絶えなかったのも,植民地を拡大したのも,領土の拡大が国王や国富の増大に直結していたからに他ならない。

 しかし,現代では,領土を拡大したとしても,それが富の増大に直結しない。逆に支配下においた領土のインフラ整備や国民に対する社会保障などの行政コストが大きく増すので,領土拡大が大変な重荷を背負うことにもなりかねない。現に東西ドイツ統合後,ドイツ経済はその大きなコスト負担によってしばらくの間停滞している。

 一方で,中東の戦争・内戦やアフリカの内戦が未だに成り立っている背景には,「領土」に直結した石油や鉱山などの資源の存在があるのだろう。アメリカがイラクには兵を派遣して独裁者を排除したが,北朝鮮は放置している本当の理由も経済的メリットの有無が関連していると指摘されているところである。

 さて,今の世の中の富を支配しているのは「貿易」と「多国籍展開」である。いつの時代も戦争の動機となってきた,経済的利益を産み出す母体に大きな変化が既に生じたのだ。iPhoneも,ナイキもHUAWEIも,ロシアの石油・天然ガスも,アメリカの農産物も,貿易や多くの国々への展開なくして富を産むことはできない。米中が貿易摩擦の真っ最中にあるが,それでも戦争にはならないだろう。お互いの国の富や繁栄を支えているのは正常な貿易活動であり,相互の国内への自国企業の展開であるからだ。

 こういった社会の大前提の明白な変化から翻って考えると,中国や北朝鮮の脅威論などが盛んに喧伝されてはいるが,それらの国々において,日本を侵略し支配するという動機が湧いて出るとは考えにくい。勿論,北朝鮮指導部の破れかぶれな暴発によるミサイル発射や,離島周辺における中国との小競り合いなどが想定されない訳ではないが,資源など無いに等しい日本への本格的侵略・支配への動機は出てこないのだ。日本を侵略・支配する軍事的実力を持ちうる中国においても,もし万一そのような行動に出たとしたら,国連憲章違反として世界中から経済制裁を受けることは間違いない。そうなれば中国は歴史上見られなかったほどの今の繁栄を自らドブに捨てることになる。

 あまり想定できる事態ではない。

 

 なぜ,今のような思考実験をしたかといえば,国防観,防衛観も時代の進化や変革によって変わっていくのは必然だと思うからだ。今の日本に,第2次大戦前のような大国間の戦争を前提としたような軍事力整備が必要だ,と考える人はほとんどいないだろうが,防衛力整備についても,現実に即した分析が必要なのだ。想定する戦争が大きければ大きいほど,専守防衛といっても必要な戦力は大きくなる。局地的小競り合いのような紛争を前提とすれば,当然規模も小さくなる。空母も不要,ということになる。

 ただし,丸裸でよい,とはならない。戦後想定されたような,日本から完全に軍事力を排除する,という考えを持つものは,現在ほとんどいないと言っていいだろう。

 そうすると次に考えなければならないのは憲法9条を巡る議論。現行憲法については,現政権やそれを支持する勢力などから「押し付け憲法」という批判が根強い。GHQの強い指導の下,策定された憲法であることは間違いないが,ただ,既得権益完全Freeで作られただけあって,当時存在していた最先端の社会理念の結実ともいえるのが現憲法だ。憲法前文そして憲法9条は,それまでの戦争とは桁違いの犠牲者を出した第1次大戦の反省から編み出された国際連盟規約や不戦条約などの延長線上にあるもので,ほぼ同じ頃に作られたフランス第4共和制憲法,イタリア憲法,ドイツ憲法にも同趣旨の条文が置かれている。

 「小作開放」や「財閥解体」,労働組合や労働関連法制の整備など,日本の民主化や戦後の繁栄や高度経済成長の基盤となった社会制度の整備や創設は,皆GHQの上からの改革であったが,これを「押し付け」改革として批判した声を聞いたことはない。押しつけであろうがなかろうが良いものは良いのだ。当時の世界水準の憲法が作られ,その元で日本の発展と繁栄があったのであるから,「押し付け」というだけではこれを変える必然性も必要性もないところである。

 問題は,世界が当時の理想通りに進まなかったことである。周知の通り朝鮮戦争の勃発によりアメリカの方針が転換し,警察予備隊が作られ,これが自衛隊と変化していった。自前の装備すらなかった警察予備隊はともかく,自衛隊ともなれば憲法9条との関連でその合憲性が当然問題となる。

 解釈上,自衛隊が「戦力」に該当するということにはあまり争いがない。問題は,9条1項でいう「戦争」が「自衛戦争」を含むと解釈するのか,含まないと解釈するのかだ。その結論によって,自衛隊の合憲性が左右されることとなる。合憲とする通説は「国際紛争を解決する手段としては」という文言を重視し,「戦争」とは国際法上の通常の用語例に従って「侵略戦争」を意味するものとし,自衛戦争のための戦力である自衛隊は合憲であると解釈している。

 ただし,厳密な文理解釈(法律を条文の文言の意味通り解釈すること)から言えば,9条1項は「すべての戦争」を指すので違憲とする説も存在するし,自衛隊発足の経緯からして実質上の解釈改憲が行われた,と考えるものもある。また,国連憲章との整合性を指摘する伊勢崎賢治氏の立場もある。

 野党においても,左翼・リベラル層の強い支持を受けている立憲民主党において憲法調査会事務局長を務めておられる山尾志桜里議員は「9条議論をしっかりやるべきだ」と率直な意見表明をされているし,枝野代表自身,元々は9条改憲論者であったと記憶している。

 私自身も「憲法9条議論」を避ける必要はないと思っている。ただし,仮にするのであれば,自主防衛の在り方をどのように構築していくのか,そしてその構築に伴い当然再構成されるべき「日米安保条約」及びこれに付随する「日米地位協定」をどうするのか,といった大きな議論と共にすべきなのだ。日本の安全保障の在り方を正面から議論し,米国とのパートナーシップを対等の立場に向けて再構成して行かない限り,沖縄の基地問題はいつまで経っても解決しない。誤解されないように付言すれば,私はアメリカと絶縁すべきと言っているのではない。現在のように日米の緊密な関係を国際関係や安全保障の基盤とするにしても,対等な国家間の連携としてそのパートナーシップを再構築することが必要であると考えるのだ。

 日本の安全保障のもう一つの方向性としては,EUを範としたアジア共同体構想もあるだろう。今後,人口増大が起こり,経済的に次の成功者と見做されているのは,インド,インドネシア,ベトナムなどのアジア諸国だ。アメリカとの関係は大事にしつつ,こういった国々と未来を共有していくというのも一つの方向性だろう。

 いずれにしろ,「自衛隊員の子どもがかわいそう」という感情的議論に矮小化して,国家の行く末を左右する大事な議論,それこそ100年に一度の改憲議論を行うべきではない。

 

 今回の論考で,最後の課題は徴兵制の問題(*後記参照)だ。

 「若者を鍛え直す」という,本来的目的から大きく外れたことをテーマとして徴兵制を論じるべきでないことは明らか。徴兵制の大前提は,兵士としての出兵であり,その先には「死」と常時向き合わざるを得ない苛酷な現実が待ち受けているからだ。

 ただし,それは志願兵制度でも同じことではある。では徴兵制と志願兵制度の大きな違いは何か。それは言うまでもなく「公平性」の問題だ。

 マイケル・ムーア監督の「華氏911」で話題となったが,イラク戦争に賛成したアメリカの両院議員のうち,自分の子どもが軍隊に行ったのはたった一人だったという。また,現在の志願兵制度が「経済的徴兵」といわれるように,貧困層が,大学進学のための奨学金を得るためなどやむにやまれぬ経済的動機から志願していることも報じられている。徴兵制が敷かれていたベトナム戦争時は配属における配慮が行われたこともあったであろうが,少なくとも貧富による実質的な不公平はなかったことになる。それが戦争終結の動機の一つともなったであろうし,実際には起きなかった戦争の抑止力ともなり得ていたのであろう。

 戦時においては,自身もしくは他者の死の蓋然性が,平時の職業では考えられないほど高まるという苛酷な職業が兵士である。公平性の問題を疎かにしてはならないが,それへの従事を強制する徴兵制にはやはり慎重にならざるを得ない,というのが以上を考慮した上での今の率直な考えだ。

 戦後75年を経ようとしている今,維持不可能であることが見えつつある国家財政や社会保障制度の在り方などと共に,防衛やこれに密接に関連する日米安保についても,その在り方を国民と共に政治家が議論すべき時が来ている。そして,その議論の先に初めて見えてくるのが,憲法9条改正を巡る議論である。

 これと異なり,現状のように,憲法9条の文言変更のみが取り出され,感情的な議論が行われているのは不合理であるだけでなく,国の先行きを誤らせるものである。

 

*なお,徴兵制は専門性が高まった近代戦では意味が無く,敷かれることはあり得ない,と論じるものがある。これは明白な誤りだ。今も昔も,戦争となれば歩兵戦闘が主力であり,都市における戦闘は特にそうであることは,イラク戦争やシリア内戦をみてもよくわかる。近代戦の最先端を行くアメリカ陸軍でさえ,基礎訓練期間は6ヶ月だ(ジェット戦闘機のパイロットなどを例に出す者がいるが,そのような長期間の訓練と才能を要する兵種は職業軍人が中心となることは当然だろう)。徴兵制が敷かれている国々をみても,1~3年間の兵役期間が多いようで,その間に基礎訓練がなされることになろう。

 

 

 

転換期を迎えた日本の社会にふさわしい政治勢力を

 今の日本には政治的に動かしがたい事実がある。政治に関する年齢階層別グラデーションのような関心の低下、そしてこれを背景とした国政・地方を問わない選挙における投票率低下である。

 その理由は、本当は一つ。転換期を迎えた日本の社会には、今後の50年先を見据えた社会制度の見直しが必要であるのに、既存の政治勢力(与党・野党を問わず)がそれを避けているという事実を国民に見透かされているのだ

 ひと昔前から変わららない、街角インタビューの定番的答えがある。

「どうせ誰を選んでも変わらないし。」

 日本人の政治的成熟度の低さを示すとしてこの定番的答えは揶揄されてきた。しかし、実はこの答えは正鵠を射ているのではないか?

 

 今の日本が、戦後の、まさにゼロからのスタートに立ったときの状況とは全く異なった状況にあるのは誰の目にも明らかである。それ故に戦後設計された、当時は革新的であった社会制度に随所に機能不全が既に生じている。

 戦後の日本、昭和の時代に存在していたこと、それは

・人口の爆発的増加とこれに伴う高度経済成長

・漸増する通貨高と経済の活性を示す高金利による国富及び国民資産の増大

・一人当たり国民所得の低さ(=低賃金労働)を利用した格安の製造コストによる世界への輸出攻勢

・高品質で均質な製品を大量生産するための管理教育の徹底と、高品質・低コスト製品による世界市場の席捲

・大企業を中心とした終身雇用制度とこれを支える徹底した解雇制限、年功序列による高賃金

・高齢者と若年層の人口比のアンバランス(今とは逆の高齢者が少なく若年層が極めて多い)を利用した安価な社会保障の徹底、若年層に負担の少ない高齢者世代の優遇

・冷戦終結時頃までの比較的変化の少ない社会情勢と安定した企業基盤

であった。

 

 改めて述べるまでもないだろうが、主に平成の時代にどのような変化が起きたか、あるいは現在進行形で起きているかといえば、

・人口減少と人口オーナス期における経済縮小

・円安と経済停滞を示す低金利による国富及び国民資産の実質的減少

・高賃金による輸出競争力低下と世界市場からの段階的敗退

・管理教育徹底による若年世代の自主性・創造性の低下と革新的技術や世界的新規企業の不発

・解雇制限回避のための非正規労働者の増加と年功序列崩壊に伴う低賃金の固定

・高齢人口層の増加による社会保障の高コスト化、若年層負担の漸進的累増と高齢者世代へのサービスの切り下げ

・果てしなく続く情報技術の進歩による激しい社会的変化と企業内部あるいは企業間の激しい新陳代謝・栄枯盛衰

 

 このように、戦後の日本の発展を支えた状況すべてが既に転換し、変化したというよりは新しい状況に入れ替わっていると言っていいほどであるが、これに対し、戦後造られた社会制度はほとんど変わっていない。構造的問題に対処療法的な立法や政策手段—例えば労働者派遣制度の解禁、異次元緩和に伴う財政ファイナンスの実施、外国人労働者受け入れの大幅拡大—が取られたが、根本的な対処、根治療法は施されていない。デフレというか構造的不況に対する根治療法が取られていないのであるから、いつまでたっても高度経済成長終了後の泥沼から抜け出せず、若い世代に希望は見えないのだ。しかもその対処療法のおかげで将来への負債(平成元年に100兆円台であった国債残高は今や約1000兆円)は増す一方、状況は悪化し続けている。

 

 この状況を改善するには、国民的議論と国民的同意の上で、戦後の日本を支え、我々が所与のものとしてきたこれまでの政策を抜本的に—戦後起きたようにまさに革命的に—変えていくしかない。

 議論されるべきは

・持続可能な社会、持続可能な財政とするための国民負担と財政支出の在り方

・現行の優れた社会保障システムを維持しソフトランディングをさせるために給付の段階的切り下げ(年金受給年齢の引き上げ、医療費自己負担の世代間平等)を選ぶのか、あるいは抜本的改革として年金の賦課方式から積立方式に大転換するのか

・正社員と非正規社員の格差是正及び賃金水準を上昇させるために、非正規社員の待遇を正社員と同等とするよう法整備を図るのか、あるいは企業間競争及び技術革新の激しさを踏まえて現行の厳しい解雇規制を緩和し、これによって不利益を受ける労働者の保護は北欧並みのセーフティネットと再教育制度の構築でケアするのか

・創造性、自主性を最大限発揮できるような教育システムに大きく転換するためにはどのようなやり方が望ましいのか

・社会に「新しい芽」が伸びるようにするにはどの規制を撤廃し、消費者や弱者保護のためにはどの規制が必要なのか

などであろう。

 

 このような抜本的議論がなされることが必要な時期であるのに、残念ながら今の国会でこのような議論はあまり行われていないのは周知の事実である。

 だから、「どうせ誰を選んでも変わらないし。」と国民は考え、じわじわと悪くなる予感を抱えながらも政治に関する興味も失われ、目の前の現実に集中するのだ。

 先の総選挙で立憲民主党が躍進したのは、今までの野党とは異なる、こういった抜本的議論で政権与党と真っ向勝負の論戦を挑む野党ができることを国民は期待したのではなかったのではないか?しかし、残念ながら現状その方向の取り組みはあまり目立たず、従来型野党の側面が目立っており、これに対する国民の失望が支持率低下となって表れているようにみえる。国民民主党は、既存の社会システムにおいて、勝ち組の大企業の労働組合をバックにしており、それが強みではあるが、そのくびきから脱することはできていないように見受けられる。現状の行き詰った社会システムを変革するというよりは維持するための政治勢力と国民に思われているので、支持率が低迷したままなのだろう。これに対して、先の地方選挙で躍進した維新の党は、「変えてくれる」という期待を、地方自治における実績を踏まえて大阪の人々に抱かせているようだ。

 

 政治に興味が失われているのには、理由がある。何事にも結果には原因があるのだ。今の野党に関心が集っていないとすれば、それは一部の野党支持者がいうように、安倍政権がマスコミを支配し情報操作しているからでも、国民が騙されているからでもないだろう。戦闘機の価格を保育所新設費用と比べても、あるいは大臣の失言や役所のスキャンダルを追及しても、今の日本の状況は少しも変わっていかないことを国民は理解している。それらを追及するのが悪いとは言わないが、もっと本質的な議論こそ国民は期待しているのだ。

 

 現状で、野党の離合集散が果てしなく繰り返されても、あるいは野党共闘が成立して一定の成果を挙げたとしても、野党間の議席の消長にとどまり、再び政権交代が起きることはないだろう。

 今の日本にどうしても必要なのは、党利党略や選挙に勝つための政治的手段ではない。これからの日本を維持し、さらには発展させていくために必要な、本質的な制度改革を国民に示し同意を得ていく努力を行う、堂々たる政治勢力なのだ。既存政党・新規政党に関わらず、そのような政治勢力と国民が認める政党が現れた時、国民の政治への関心は高まり、日本は次の時代に向けて、新たな、前向きの一歩を踏み出すのである。

【国会報告】金融危機の過去から学べ。令和にバブル崩壊を起こしてはならない。

皆さんは金融機関の破たんが相次いだ20年前の「金融危機」をご記憶だろうか?
タイ、インドネシア、韓国などアジア諸国を自国通貨安が襲ったアジア通貨危機。ロシアにも及んでルーブル暴落と国債のデフォルトを呼び、それがさらに飛び火してロシア国債に多大な投資をしていたLCTMというアメリカのヘッジファンド(ノーベル経済学賞らが運用していたことで有名だった)の破たんも生じた。
一方、日本では、バブル崩壊後の地価下落や無謀な投資案件などに伴い、多額の不良債権を抱えた銀行や証券会社が次々と破たんして行った。この時破たんした金融機関のたちが悪かったのは、子会社などに「飛ばし」と呼ばれる手法で不良債権を隠していたため、それが明るみに出たときには、巨額の負債となっていて、直ちに破たんするしかない状況になっていたのだった。債権者にとっても、社員にとっても、株主にとっても世間にとってもまさに不意打ちであった。
現在、金融機能早期健全化法に余剰資金が生じ、それを国の一般会計に組み入れるための法改正が図られており、それに関連して財務金融委員会で質疑が行われ、私も質問の場に立った。
この当時、金融システムの安定のために次々と法案が成立し、法改正がなされ、それによって多くの国民負担が生じた。まずは質疑を参考にこの時起きたことを簡単にご紹介する。
1994年、高度経済成長、バブルを経て、盤石と思われていた日本の金融機関が破綻し始めた。この走りとなったのが、東京協和信用組合、安全信用組合の二信組事件。95年には、兵庫銀行が戦後初の銀行破綻、96年になると、バブル崩壊による地価下落で不良債権の巣窟と化した住専(住宅専門貸付会社)、この処理のための住専処理法が成立している。このときに投入された国費が6850億円、これが非常に多いと国会でも問題になり世論が盛り上がったが、その後の金融機関破綻処理で使われた国費からするとこの6850億円がかわいく見えてくる。97年に入ると、三洋証券が破たんし、地銀の雄と言われた北海道拓殖銀行が、洞爺湖リゾート関連の不良債権と損失隠しのための飛ばしで破綻し、98年には本丸の長銀、日債銀破たんが起きる(リーマンショックの10年ほど前に、日本でも巨大金融機関の破たんが起き、巨大な国民的損失が起きたのだ)。
この一連の破たんの過程で大変問題のある法改正と国費投入が行われていた。最初に行われたのは預金保険法の改正。2信組事件のときは、後の整理回収機構(RCC)となる受け皿金融機関が作られ400億円の金銭贈与が預金保険機構より行われただけであったが、96年の預金法改正では、預金の全額保護を行うことができるとされた。それまでは、1000万円が預金保護(ペイオフ)の限度額であったが、このとき、ペイオフの限度が特例措置として外されたのであった。これによって預金者は救われたのだが、反面、税の投入により、非常に多額の国民負担が生じた。財金での政府答弁によれば、その額は10兆4326億円という巨額なもの。問題は、このルール外の負担が本当に必要であったのか?ということだ。平成14年の一世帯あたりの預金平均値は、1680万円。ただし、最も多い中央値(中位数)は1022万円であった。つまり、一般市民救済という観点からすれば予定されていた1000万円でもほぼ足りていたのだ。あえて特例措置を行ったことによって、救われたのは富裕層であったという側面は否定できないものだろう。
より問題であるのは、長銀と日債銀の国有化であった。この両銀行の処理を主眼として、金融再生法が成立し、破綻銀行の特別公的管理、一時国有化が行われ、両銀行の預金者だけでなく両銀行に対する債権者も全額救済された。このときに投入された国費はなんと約17兆2000億円。そのうち約8.3兆円の国民負担が確定している。しかもこれだけの国費投入して一時国有化して救済した両銀行を、国は民間投資グループに売却しているのだが、いったい幾らで売却したのか?
その答えは各々10億円。
それでは10億円で叩き売った両銀行が一体今幾らの価値になっていると思われるだろうか? 
その答えは新生銀行(旧長銀)8306億円、あおぞら銀行(旧日債銀)4290億円。
もちろん、買収後の民間経営が努力したというのもあろうが、巨額の国費が投入されたことを思えば、不公平だと感じざるをえない。
そして、総額で19兆円もの国民負担が民間金融機関の破綻処理のため生じたのであった。
 
さて、話を現在に。このような金融危機も元はといえばバブル崩壊が原因であった。今もバブルが心配されている。何のバブルかといえば、日銀、FRB(アメリカ)、ECB(EU)などの中央銀行主導の大規模な金融緩和政策によって生じている金融バブル、中央銀行バブルだ。中国も実はかなりの量的緩和政策を行っているとも報じられている。この副作用で世界中にマネーがあふれて、金融バブルが起きているのではないかと危惧されるのだ。
麻生財務大臣も、野田元総理の質問にアメリカでは一部不動産の地価上昇に心配がある旨答弁されていた。私の質問に対しても、(G20各国などでも)気をつけていがなければならないということは「みんな一致しております」と答えられていた。そして、日銀の雨宮副総裁は、別の委員の質問に、平成バブルの原因として当時の日銀の金融緩和政策を挙げられていた。
ご承知の通り日銀の異次元緩和は既に5年経過している。FRBはもっと長い。この中央銀行バブルというか金融バブルが心配されるのは、株や不動産だけではない。マイナス金利の国債が取引されているのだから、人為的な国債バブルも生じているのだろう。 
バブルというのは崩壊してみなければわからぬところがあるというのは、麻生大臣の答弁であったが、金融バブルの崩壊で株式市場が崩れれば、日銀、GPIFなに多大な損失をもたらす。また、それに伴って金融危機が再び起きれば、またも巨額の国民負担と、不公平な解決が伴うのだろう。
平成バブルの崩壊が昭和の歪みの蓄積による必然だったように、中央銀行バブルの崩壊は、平成の歪みの蓄積による「令和バブルの崩壊」として語り継がれるのではないか。そんな危惧を抱かざるを得ない。

萩生田発言は党利党略の極み。決めたことは堂々と実行せよ

安倍首相に近いことで知られている萩生田幹事長代行が10月の消費税増税に関し、6月の日銀の企業短期経済観測調査(短観)が示す景況感次第で延期もあり得る」「6月の日銀短観で、この先は危ないと見えてきたら、崖に向かってみんなを連れて行くわけにはいかない。違う展開はある」と述べた」と伝えられた(共同通信配信ヤフーニュース

まさに党利党略の極みだ。菅官房長官は従前の「リーマン級の出来事内が起こらない限り引き上げ方針に変更ない」(ロイター)と否定したようだが、明らかに野党に対する揺さぶり発言だった。

しかし、萩生田発言の問題は否定すれば済むような問題ではない。すでに何度も言及しているが、現在の日本の国家財政は、実質的には破綻しているといってもよい状況。国家財政への信認が失われれば、即通貨への信認喪失に繋がる。この問題に関する懸念は私一人のものではなく、麻生財務大臣、黒田日銀総裁も共有していることが先日の財務金融委員会での私の質疑で確認された。

また、今の1000兆円に上る国債残高は未来への負の遺産そのもの。消費税増税を見送れば60年払いで支払っている国債の残高がさらに積みあがる。

G20で「本年後半には世界経済の勢いを取り戻す という見通しが出され、~世界経済における、年当初に考えていたような下 方リスクというものがかなり改善をされて、参加 国の間でもこうした認識が共通されたんだ」と麻生大臣が一昨日の財務金融委員会で述べていたが、財政に責任を持つ財務大臣がそう考えている中(茂木再生相も「景気回復途切れたと考えない」と発言している)、政権与党の要職にあるものが、こんな発言を軽々にするなど考えられないことだ。今さえ良ければ、今の政権が維持されれば未来などどうでもいい、と安倍首相が考えていることを端的に示しているのではないか。