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迫りつつある国会の終焉。国会リバイバル・プランを。

もうすぐ,第198回通常国会が始まろうとしている。本日(18日)11時からの衆院議院運営委員会で官房長官から28日召集が提示された。

だがまさに今、我が国の国会は静かに終焉を迎えつつあるようにみえる。司法の世界から飛び込んできた私にはそんな風景に見える。ご承知の通り、現状、多数決という意味では全ての法案審議についてその結果は見えている。しかし、問題はそこではない。

国会に議論が存在していないのだ。

本会議の代表質問や討論が、事前通告された質問に対して、総理や大臣が、官僚の手による当たり障りのない答弁で応じるという形式的なものとなっているのは周知の通り。

一方通行のやり取りが延々と続くのだ。

率直に言ってこの形式を続ける限り議論が深まることはない。

そして党議拘束で縛られた各党議員に賛成反対の自由はないため、採決が討論の影響を受けることもない。選挙の結果で、全てが決まっているのと同じだ。国会は政府案のお披露目の場に過ぎない。

野党は抵抗手段として、委員会委員長や大臣の解任決議案を提出するが、法案審議のペースが乱されることすらない。

 

実質的な審議が期待されるのは委員会だが、野党委員の質問で大臣が立ち往生することがあっても、それは本質的な議論の応酬の結果ではない。政府の不誠実な答弁や大臣の個人的資質による立ち往生によるものだ。そもそも答える側において、官僚の作成したペーパーではなく自分の考えで答弁されるのは麻生大臣などごく少数に過ぎない。

議論が活性化しないのは答弁者だけの問題ではない。十分に準備された用意周到な質問ばかりではなく、精神論だったり揚げ足取り的なものもある。総じて生産的な議論がなされているとは言えないだろう。

 

だから報道においても、大臣答弁の言葉の揚げ足取り的な批判がなされることはあっても、本質的な議論の応酬が取り上げられることは数少ない。

 

民主主義には様々な要素があるが、多数決だけが本質ではない。少数派も交えた議論による議案のブラッシュアップも重要な要素である。そこが完全に麻痺してしまっているのだ。

国会がこの機能不全を続けていけば、国民の関心が失われるだけではない。役に立たないものとして国民から軽視される傾向が強まるであろう。それが国家の将来として望ましいものではないことは勿論のこと、まずは全ての政党、議員にとっての不利益となる。

党利党略を離れ、自らの価値を高めるために党利党略を超えた国会リバイバルプランを作るべき時期に来ている。

ここで,具体策を若干提案する。そんなに難しい話ではない。

1.本会議は,演説的類型のものと討論型を区分する。代表質問などは各党の主張を明確にするものであって,前者として従来型で良いだろうが,法案審議に際しての質疑は,委員会のように対質に改め,本会議でも実質的な論戦を行う。この際,フランスの対政府質問のように,質問内容の事前通告制度はなくし,自由で率直なやり取りができるような制度設計とすべきであろう。フランスでは「メディアの注目の集まる場で短時間に凝縮された発言が繰り返され,緊張感のある質疑が生まれている」(主要国の議会制度・立法と調査2007.10 No.274より引用)とのことである。

2.法案については政府側に計画的な審議を義務づけ,一方,質問者側にも2日程度の事前通告の期限を設け,官僚に無理な準備を強いさせないと共に実のある答弁の前提を整備する。

国民の政治に対する信頼を取り戻すためには,まずは質を上げること。当たり前のことであろう。