Monthly Archives: 1月 2019

稀勢の里を引退に追い込む力士の怪我。公傷制度を復活させよう。

 久しぶりの日本人横綱,稀勢の里がピンチを迎えている。

 進退のかかった初場所で連続黒星スタートとなってしまった。そもそも,稀勢の里がつまずいたのは横綱として初めて臨んだ2017年3月場所13日目に左胸筋損傷の大怪我を負ったからだ。無理を押して15日目から再出場し優勝したが,翌場所も完治しないまま出場して途中休場。以降,出ては途中休場そして全休の繰り返しだ。これは他のプロスポーツではあり得ない事態だ。

 

 例えば,野球。昨年,メジャーで大谷翔平選手が靭帯再建手術を受けたが,そこに至る過程で怪我をする度に,怪我の程度や治療方針,復帰までの見込が発表されていた。当然,選手もそのスケジュールに従ってじっくりと治療と回復に励むことができる。

 

 しかし,大相撲では,怪我の詳しい内容もあまりはっきりとせず,診断書に記された診断名と全治期間がアナウンスされる程度だ。これでは,治療方法も,期間も復帰までのスケジュールも,すべては力士自身の判断に委ねられているも同然で、スポーツ医学などの知見に基づいた最善の復帰に向けたプランが策定されるとは到底考えられない。また,ファンやマスコミも,客観的情報が与えられないため,稀勢の里のようなはっきりとしない経過を辿っていることの責任が本人の努力不足にあるのか,それともリハビリを含めた治療が誤っているからのか,怪我の性質上復帰自体に無理があったのか,あるいは年齢的な限界なのか,などの判断ができず,感情的な批判や報道が繰り返されることとなる。

 

 これでは,プロスポーツにとって宝というべき選手を守ることができない。ましてや稀勢の里はここ10数年絶えて久しかった久しぶりの日本人横綱,大相撲の至宝ともいうべき存在だ。このような状況が繰り返されることは,ファンにとってもよろしくない。

 一方で,現在の力士全般の体格の向上による肉体の負担は,人間が耐えうる限界におそらく達している。平均体重160kgを越える巨漢力士たちが防具もつけず全力でぶつかり合い,時には土俵下に転がり落ちるのであるから怪我がないほうがおかしい。大相撲自体,力士の怪我を前提としたプロスポーツであるといっても過言ではないだろう。

 

 そこで提言したいのだが,以前は存在した公傷制度を現代化して復活させ,合理的な治療と回復を行える制度を整えたらどうだろうか。具体的には,怪我の種類と程度によってある程度治療期間,方法並びに復帰に向けてのプランを標準化し,その間は番付を維持するなどが考えられる。また,公傷制度廃止の遠因となった恣意的な公傷申請を防止するためには,力士が選択した医師による詳細な報告だけでなく協会が提携する実績ある医療機関による判断のWチェックを行うなどの整備を行えばよい。

 

 伝統は尊重しつつ,必要な部分は合理的な刷新を行って行く。すべての組織と同様に,相撲協会にも求められているところであろう。

日銀よ、異次元緩和の出口を示せ。

 日本銀行が黒田総裁の登場と共に、異次元緩和と呼ばれる金融緩和策を始めてからもうすぐ6年になろうとしている。

 その政策の本質や効果については様々な議論があるが、間違いないのが大量の国債購入が副次的効果を生んでいることだ。日銀の国債購入は年間80兆円を目途とされ、現在はその半分程度ということだが一時は実際にそのボリュームで買い入れが進められていた。その結果、2018年9月に999兆円に達した国債残高のうち44.6%、額にして445兆9347億円は日銀保有だ。

 

 この大量の国債買い入れがもたらす副次的効果(例えば金融抑圧(人為的低金利)による、地銀などの経営圧迫や国民金融資産への実質的課税)は幾つかあるが、日銀や黒田総裁が口にはしないが、将来にもっとも悪影響を与えるであろうものがある。

 それは、国の財政支出に関する規律がルーズになることだ。新規国債発行額のほぼ全額を日銀が実際上買い取っていることにより、財政支出は事実上歳入による制約がなくなる。税収に縛られないだけではなく、国債の買い手を探すことすら不必要となって、無尽蔵に歳出を拡大することが可能となる。現に、平成31年度予算は史上初めて100兆円を超えることがほぼ確実だが、うち税収で賄われるのは62兆円に過ぎない。

 

 このルーズさに対して、政治は敏感とはいえない。野党各党も、個々の予算、特に防衛関連予算(例えばイージス・アショアなどのミサイル防衛システムやF35購入)については目を光らせ批判を行うが、そそもそもの財政均衡についてあまり鋭い批判はなされていない。

 その主要な理由は、政治、政治家とはお金の使い道を競うことをその本質としているからだろう。暮らし向きを楽にする政策、あるいは企業・団体の利益となる政策(例えば法人税減税や補助金の拡大)を採用すれば間違いなく党にとってのアピールとなり、選挙における投票誘導に繋がる。政党も政治家もプロとして存在している以上、自己の存在が強化し拡大される政策を訴えられることは大変な魅力となる。しかし、通常であるならば財源は限られているため、支出にも優先順位を付けざるを得ない。すべての対象(貧困層・中間層・富裕層、給与所得者・自営業者・第一次産業従事者、中小企業・大企業・団体)にいい顔はできないのだ。

 ところが、日銀が異次元緩和という名の国債買取政策=財政ファイナンスを続ける限り、この制約は外れる。すべての対象に同じようにご機嫌取りをすることが可能となるのだ。このところ安倍総理が「私こそリベラル」といった発言をされることがある。リベラルとは多義的だが、おそらく総理が言われているのはが、福祉政策及びそのための支出により「大きな政府」を指向する政治を指しているものとみられるが、それは日銀という名の「打ち出の小槌」を手にしているからこそできることだ。

 現在の野党各党も、おおむねリベラルを自認する政党が主流であるため、日銀の異次元緩和策はむしろ自分たちの政策実現のためには好都合であるため、この点について踏み込んだ批判が行われていないのであろう。私が所属する財務金融委員会でも、この1年間の質問の大半は森友・加計問題や財務省のスキャンダルの追及に費やされ、プライマリーバランスなどの金融政策に関する質問は、野田元総理など特定のフリーな立場にある無所属の委員からなされるだけであった。直近の委員会でこそ参考人として出席された黒田総裁に対し、各野党委員から出口政策関連の質問が幾つかなされたが、森友・加計問題を追及されている時ほどの激しさもなく、意見を承る、程度のやり取りしか行われず突っ込み不足の感があった。

 

 しかし、である。この状況が続けばモラルハザードが蔓延する。すでに、一部の政治家や評論家が、この政策に副作用はなく、むしろ財政均衡を説く一部評論家・政治家は財務省の手先あるいは財務省に乗せられているだけだ、などと公然と批判している。そして、国民の側にもこれに誘導され、消費税増税など不要、景気拡大のための財政支出拡大こそ国民のための政治だ、と考える方も少なからずおられる。

 

 だが、今この財政ファイナンスの悪影響が顕在化していないのは、おそらく米国、EU、中国といった世界の主要国の中央銀行がリーマンショック後、日銀に先行して同様の量的緩和政策(中央銀行の資産拡大とこれと対をなす通貨発行量の増大)をとってきたせいであろう。一国のみが突出して通貨発行量を増やせば、あまり時間を置かずにその国の通貨安を招き、ハイパーインフレを引き起こすことになるだろうが、みんなが協調して行えば目立たなくなる。みんなが通貨の価値を薄めれば、相対的な均衡が保たれることとなるのだ。まさに「みんなで渡れば怖くない」政策が世界的に協調して行われてきたのだが、ここにきて米国、EUはまずは量的緩和政策を停止し(テーパリング)、段階的な資産縮小に移行しようとしている。そんな中で日銀のみ出口政策が取れないとなれば、最悪のシナリオとしては円の信認が失われ、ハイパーインフレが日本を襲うこととなる。これを避けるためには日銀も出口戦略を策定し、出口政策を実行しなければならない。

 

 一方で、日本銀行が出口政策をとっていくには幾つものハードルがある。よく言われているハードルとしては、出口政策を取り始めた途端金利が上昇して既発行の国債価格が暴落し、日銀が債務超過に至る、というものだ。しかし、ハードルとして最も高いのは、実は政治的抵抗であろう。出口政策を取り始めれば、今の財政ファイナンスは行えなくなる。税収で歳出を賄おうとすれば、防衛費のみならず社会保障費、教育費など国民に密着した予算も大幅に削るしかなくなる。あるいは消費増税も含めた増税も必要となるだろう。これらはすべての政党が嫌うところである。

 

 そこで、日銀の政治的独立性が形式的には確保されている今のうちに(日銀法改正という脅しが時折囁かれている)、日銀は出口戦略について明確なフォワード・ガイダンスを示し、その工程を明らかにして政治の甘え―換言すれば財政規律の緩みを是正していくべきなのだ。それが「異次元緩和」という実験的かつリスキーな政策を選択し主導した黒田総裁の責任であろう。

リスク管理をしよう①食料自給

 歴史的に日本ではリスク管理が行われていない。

 その最たる例が、第二次大戦における米国に対する開戦だ。当時の国力をよく表す鉄鋼生産量は日本の8倍強、GDPは5倍強であった。石油生産量に至っては738倍、到底かなう相手ではない。しかし、それでも戦争は選択された。

 少し前、北朝鮮がアメリカとチキンレースを行い、開戦前夜のような雰囲気が漂った。このとき、ほとんどの方は北朝鮮に勝ち目はない、開戦すればかの国の独裁体制が終焉するときと感じていたであろうが、当時の世界から日本を見る目はこれと同じであったであろう。チャーチルは、ドイツとの戦争勝利を確信したと伝えられている。

 

 では、その反省は現代の政治に生かされているか?答えはNOだ。

 そもそも「リスク管理」という発想すらないように思われる。

 

 そもそも国家における重要事項は何か?それは、国民を困難に直面させないことである、と私は考える。個々人ではできない備えを行うことこそ国家の重要事項なのである。国防が国家の機能として重要視されるのはその表れであろう。現代における国防とはすなわちリスク管理なのである。

 しかし、リスク管理は国防にとどまるものではなく、同等以上に重要なものが幾つか存在する。そしてそれには優先順位がある。その中でまず、最重要なものは何か?

 それは「国民を飢えさせない」ことだ。化学肥料と品種改良により農業が飛躍的に発展し、食料品の輸出入が当然となっている日本や先進国においては想像すらできないことではあるが、飢饉、そしてそれに引き続く飢餓は、現在でもアフリカや北朝鮮などの発展途上国では深刻な問題だ。最近の異常気象の頻発をみれば世界的な気候変動による食料生産の突発的な減少が起きたとしても不思議はない。その時に、食料生産国はまず輸入よりも自国への供給を優先させるであろう。そうなれば食料自給率の低い我が国は直ちに飢餓に直面することになるのだ。食料自給率の計算にはカロリーベース、生産額ベースの2とおりがあるが、ここでは飢餓との関連を論じているのでカロリーベースをみていく。感覚のとおり、日本の食料自給率は長期的に継続して低下しており、昭和40年代には7割を超えていたものが、直近の平成29年度には4割を切り38%となっている(出典:農林水産省WEBサイト http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/011.html)。

 ナショナル・セキュリティーといえば、原子力発電に関連して「石油」のみ語られることが多いが、石油生産は埋蔵量がはっきりしている地下資源からの採掘であることから、自然的要因によって生産量が不可避的に急減することはあまり考えられない。今後も上向くことはないであろうから、むしろリスクが大きいのは食料輸入だ。仮に直ちに輸入が止まれば、単純に考えれば国民の6割は飢えに直面してしまうのだ。

 

 この飢餓リスクに対する備えとして、最も簡単なのは保存食の国家的備蓄である。石油においてはすでに計画的に行われ、国家備蓄132日分、民間備蓄92日分、産油国共同備蓄6日分計229日分が備蓄されている。これに対し、食料については、緊急事態食料安全保障指針が定められており、農水省のWEBでは、米については100万トンが適正備蓄水準、小麦は国全体として外国産食糧用小麦の需要量の2.3ヶ月分と紹介されているが、政府備蓄米は91万トン程度だ。これに対して主食米の年間需要量は減少したとはいえ750万トンあるため、91万トンでは2か月分にも満たない。

 

 そこで、以下の提言を行う。

1 米・小麦などの保存可能な主食を中心として、冷凍食品などの保存食も活用して、食料の備蓄量を1年間分程度まで増やすこと

2 農産物の自由化が進むことを踏まえ、バランスのとれた最低自給率目標を各品目ごとに定め、この分の生産については国策として確保すること

3 国民個々が自衛策を取りやすくするため、市街化調整区域の開放を段階的に進め、農家でなくとも農地を借りて耕作を行えるようにする、あるいは自給自足ができるほどの敷地をもった住居をもてるような誘導政策を進めること

4 近海漁業に関する効率化を推進する。特に養殖事業の改善に取り組むこと

 

思いっきり住みやすい日本に作り替えよう

 私は,日本の将来に解決策がほとんど見出せないと思ってきた。

 だから,少子高齢化,財政破綻,社会保障破綻,異次元緩和などへの危惧をずっと呼びかけながらもそこにとどまっていた。だったらどうするのか,聞かれることもあったが,おいしい未来や解決策を提示することはできないでいた。以前,短時間だが,立命館大学の経済学者浜矩子さんとお話する機会があったがやはり同意見であった。

 

 しかし,市街化調整区域を新住民に提供して再活用しようという静岡県御殿場市の試み をみて,新しいビジョンが開けた。

 

 今,日本国民の1人当たりの名目GDPは,世界で25位,額では3万8448ドルである(2017年・IMF)。首位のルクセンブルクの半額以下ではあるが,フランスやイギリスとほぼ同等,決して貧しいとはいえない。だが,生活実感として自分の生活が豊かである,ゆとりがあると感じている方がどのくらいおられるのであろうか。実際,日本銀行が行っている「生活意識に関するアンケート調査」の最新版によれば生活に「ゆとりが出てきた」という方は6.4%に過ぎず,その割合は経時的にみても一桁台でほとんど変わりはない。

 では,そこそこの収入はあるのに日本人の生活実感が向上しないのはなぜか。

 その主要な理由は,土地価格が高すぎることにあるのではないだろうか。

 一般国民にとって,土地は収益や交換価値を求めて購入するものではない。土地は居住用に購入するものであって,一生に一度の買い物で,いったん購入すればそれを手放すことはない。その土地があまりに高いものであるため,せっかくの収入のかなりの部分が「住宅ローン」の支払に費やされる。それも,長い年月ー購入した後の勤労可能期間のほとんど全部に及ぶことが多い。当然,消費もその分抑制される。これでは,世界的にみて収入がそこそこであっても,実質的な豊かさは実感できない。また,せっかく手に入れた土地も狭小で,「ウサギ小屋」と揶揄されたような貧弱な住環境では生活の質も向上しない。

 土地が高いことの問題は,商業や新規起業者にも大きな影響を及ぼす。一般的に小売業や飲食店は,テナントとして賃借料の支払いが固定的にかかってくる。その負担が重すぎることが,シャッター街の原因ともなっている。また,見逃されがちだが,最近目に見えて増えている老舗の店じまいも,同じ原因だ。老舗は店舗を経営者が所有していることが多いが,後継者として親族ではない第三者が嗣ごうとしても,とても店を購入するまでの費用を考えれば採算が取れなくなる。

 

 それでは,国民の暮らしを豊かにするためには,どうすれば良いのか。答えは簡単だ。土地の価格が安くなれば暮らし向きも楽になるし,生活の質も向上する。そのためには,土地の需要を減らし,供給を増加させれば良い。需要減は放って置いてもそうなる。人口は,厚労省・総務省などの推計によれば2060年頃には9000万人を割り込み,今の人口の3/4となり,100年先には4000万人と1/3まで減少する。さらに少子化の影響で親の不動産にそのまま住む世帯が割合的に増加もするであろう。子供2人以下が標準的である現在,新たに別の土地に世帯を設けることも減る一方となり,これも需要減に繋がる。

 供給増はどうか。その答えの一つが先の御殿場市の取り組み,市街化調整区域の宅地化だ。人口が指数関数的に増大していった高度経済成長期,農地の保全や緑地の確保,という点で,市街化調整区域の存在は意義があった。しかし,今や農業人口が減少し,遊休農地が増えているのが現実だ。かつ需要減から宅地開発への規制の必要性も減少している。

 そこで,段階的に市街化調整区域を開放し,安価で広大な住宅用地を国民に供給するという政策に方向転換することに合理性が見出せるのだ。

 この政策には幾つもの副次的効果が期待できる。一つは,人口の大都市への一極集中の是正だ。安価で広々とした宅地がまとまって供給されれば,そこで子育てや人生を楽しみたいという若い世代はどんどん出てくるはずだ。また,将来の食糧危機への備えともなる。ナショナルセキュリティといえば日本では石油などのエネルギーに偏って議論されるが,真のナショナルセキュリティは食料確保だ。異常気象の相次ぐ昨今,食料の6割以上を輸入に頼る日本は,世界的な食料減産などがあればあっという間に干上がる。国民にとって本当の恐怖,「飢え」が現実化する。第2次大戦前,ブラッドランドと呼ばれたポーランドやウクライナなどで1000万人以上の住民が死亡したとされているが,その多くは餓死者だったという。しかし,ヨーロッパの近郊部でみられるような自家菜園が設けられるような広い敷地が一般化すれば,その備えともなる。生活に欠かせない食費の節減にもなり,豊かさはさらに向上する。将来の年金水準はさらに低下するであろうが,基本的な生活費さえ安ければ,衣食住は賄えるのだ。

 

 

 今の日本,これから大変な危機を迎えるであろうが,やり方次第,切り抜け方はある。これからもこういった提案を行っていきます。

 

マスコミよ変われ。

 ゴーン氏の事件,検察の手法や大新聞の報道について,Facebookやツイッターで度々疑問を投げかけてきた。そもそも,オーナー企業や株式非公開会社であればともかく,日産ほどの大企業,しかも一部上場会社で,雇われ社長が背任などの犯罪を行うことはシステム的に困難だ。

 そして,当初の逮捕容疑であった有価証券報告書の虚偽記載などの形式犯で,ゴーン氏ほどの重要人物を逮捕・勾留すること自体が異例で,法適用の公平さを欠いていた。また,その実質も,会社法の規定からすれば退職後の報酬など未確定であったことは明らかだった。

 その後の特別背任容疑となった「デリバティブの損失付け替え」も,山口一臣氏の記事によれば単に報酬をドル建てで確実に受け取るための契約に過ぎず,損失は日産ではなくゴーン氏に帰属することも定められており,ゴーン氏の報酬が担保に差し出されていたとのことだ。また,朝日新聞の記事では,取締役会の承認を得なかったなどともされていたが,額からしてそんなことはあり得ないと思っていたが,やはり事前に承認を得ていたそうだ。

 こういった事実は,記者が取材で明らかに出来るはずのものであるが,おそらくは検察もしくは日産筋からのリークにそのまま乗っかって記事を書いたのであろう。私自身も情報を流す立場,流された立場で経験しているが,日本のマスコミは,独自の裏付けはほとんど取らない。弁護士,検察官,政治運動グループ,相手が誰であれ,面白そうなネタで一見信憑性がありそうであれば,それをそのまま垂れ流すのが通例だ。それをもっとも日常的に利用しているのが警察であり,検察だ。裁判の前にまず世論の流れを作るために情報をリークし,記者もそれを承知で一方的な記事を作る。無罪推定も何もない。

 これが米国などであれば,巨額の懲罰的損害賠償というペナルティがあり,トムクルーズの妻ケイティ・ホームズがスター誌を訴えた事件では,5000万ドルという巨額の賠償を行うこととなったようだ。これほどの金額であれば企業の存続さえ左右するので「裏取り」は意識されるし,危ういとなれば直ちに撤回し謝罪するなどが行われているようだが,日本ではそのような抑止力は働かない。たまに名誉毀損による損害賠償が命ぜられるときもあるが,記事から数年後にせいぜい300万円程度であるため,やった者勝ち,抑止力とはならない。

 最近の報道は,すべての方面において一方的な度合いを増しつつあり,また,各社の横並び意識の激しさから,矢面に立たされたものはまさに集中砲火を浴びて粉みじんとなる。ゴーン氏ほどのステータスがあり,しかも外国人であるが故に国際的な後押しがあればこそ,この状況にあっても反論の声は報道の受け手である国民に少しは届いているが,一般人であれば多少の地位などあってもなんの意味もない。

 厚労省の村木局長の冤罪事件は遠い過去の話ではないが,報道機関はほとんど何も学んではいないようだ。

 日本社会のあらゆる担い手は,今一度,自分の姿を見つめるべきであるが,政治家と並びマスコミは,それが求められる筆頭だ。すべての職業は,アップデートされ向上している。以前と同じ楽なやり方(リーク報道・主催者発表の垂れ流し)ではマスコミ自身の未来が閉ざされる。新聞各社の信じられないほどの部数減は,単に人口減少やネットの普及だけが理由ではない。質が低いままであることを需要者である国民に見切られていることに気づくべきだ。

60歳以降の賃金を抑制すべきではない

国家公務員の定年を60歳から65歳に延長するための関連法案の概要が報じられている。60歳以上の給与水準を60歳前の7割程度とすることや50代から60代の給与カーブをフラット化し,50代から徐々に給与水準を抑制するとのことだ。

 

しかし,年金支給年齢を65歳に繰り上げられている現実からすれば,労働者は65歳まで生活のため働かざるを得ず,労働者にとって定年延長もしくは再雇用に応じることは任意ではなく必然だ。その上で,60歳以降においても所掌する業務が同じであるならば,賃金大幅切り下げは,単なる年齢ハラスメントだ。その利益は,一方的に使用者側に生じるだけだ。使用者側からは,日本の年功序列制度の下では若年労働者に比べてコスト高となっていることを是正することに繋がるとの主張もありそうだが,そもそもバブル期以前に比べ賃金そのものが低下しているし,給与カーブもフラット化している。そして,ベテラン労働者の生産性の高さは,現場の第一線を知る経営者の誰もが認めるところであろう。

 

この賃金切り下げは,景気の悪化にも繋がるだろう。今の日本のデフレの原因は,日銀黒田総裁が唱えるデフレマインドなどにあるのではない。労働分配率の低下に伴い,国民の大半を占める賃金労働者層の購買力が低下ていること,生産年齢層の人口が年々減少していることによる需要不足によるデフレだ。60歳以降の給与の切り下げは,それが雇用において競争関係にある若年層の低賃金固定化にも当然直結する。国民全体の賃金低下,ひいては購買力低下をもたらすのだ。

さらに,この法律は司法(裁判所)にも影響を及ぼす。裁判所はこれまで中高年労働者等の特定階層を対象とした大幅な賃下げについても慎重な姿勢であった。こうした中,国家公務員について広く法律により3割の切り下げが認められてしまえば,今まで定年延長もしくは再雇用時に賃金水準を切り下げていなかった民間企業においても広くこれに倣うことが予想され,さらに,司法もこの現実を追認していくであろうことが十分に予想される。

政府は,一億総活躍社会を標榜するのであれば,相応の仕事には相応の賃金を支払うことを前提とすべきであろう。「百姓は生かさず殺さず」の現代版を目指すべきではない。

今、最初の一歩を

 日本に降りかかっている暗雲が晴れない。

 その理由は複数あり,しかも解決策はほとんどない。
 
 まず,最近になってようやく目が向けられた少子高齢化および人口減少。先見性がある者は既に1980年代からこれを見越した対策を打ってきた。日本最強の圧力団体である日本医師会と誰よりも人口動態の見通しに詳しい厚労省は、タッグを組んで医師数を一人たりとも増やさない政策を採用させ、医師会の力を絶対的なものに昇華させた。しかし、政治においては、与野党共にこの国の重大事に関心を寄せてこなかった。消費活動の減少による商店街の衰退、極端な人手不足による中小企業の苦境、人口減少が抹消から始まっているが故の中小都市の縮小、などが目に見えるようになった最近までこれは放置され、政治課題にすらされなかった。
 
 次に、破綻寸前の財政。この10年、歳入不足は30兆から58兆円の間を推移し、国債の発行額もほぼ同等の水準だ。つまり、毎年少なくとも30兆円にも登る巨額の財政赤字が生じており、それが国債により賄われている。当然、国債残高は指数関数的に増加する。一方で、国民の貯蓄率は減少し、国債を購入する余力は金融機関にも無くなった。そのため、黒田氏が日銀総裁となって以来、「異次元緩和」の名の下に実質上の財政ファイナンスが行われ、国債残高は遂に2018年9月に999兆円に達し、うち44.6%は日銀保有だ。
 
 外交、そしてこれに密接に関連する国防も、国際情勢から置いていかれている。隣国であり歴史的にみて緊張関係にある中国が、まさに米国と次の世界の盟主を巡って真っ向からの争いを繰り広げ、世界もそれに翻弄されている。米国の相対的な力の低下に伴い、財政余力のない日本も米国の軍事的世界戦略の一部に組み込まれ、海軍力とミサイル防衛システムを中心として身の丈以上の支出を迫られ、専守防衛の一線を越えようとしている。近時行われている安保法制の整備や憲法9条改正もこの延長線上にある問題だ。
 
 直接的には政治問題ではないが、日本企業の国際競争力の喪失も未来に大きく影を落とす。製造業で国際競争力を維持しているのは自動車産業など一握り、新興企業は、国内では有名で幅を利かせるが所詮はガラパコス産業、国際的競争力は皆無に等しい。米国、中国は次々と世界的企業が輩出しているが、日本では絶えて久しい。その理由を遡っていけば、新しい企業に不可欠な真の意味での創造性や伸びる隙間の欠如というところだろうが、この土壌を耕すのもやはり政治であり行政の守備範囲だ。
 
 では、こういった課題に対して日本の政治、政党政治は機能しているか。この一年間、国会や財務金融委員会に籍を置き、実体験を通して見てきたが、機能不全という一言につきる。
 先に挙げた4つの基本的課題について、正面から論戦が張られたことが一度でもあっただろうか。衆院本会議における論戦では森友・加計問題などについては、関係のない法令審議の場面でさえ執拗に取り上げられるが、簡単な解決策は存在せずそれ故に各政党の真価(何を存在理念とし、どこに優先順位を置くのか、大事にしている対象はどこにあるのか(広く一般国民か企業か))が問われる基本的課題について骨太の議論がなされたことは記憶にない。私が属している財務金融委員会は、まさに財政にかんして専門的議論が行われるべき委員会であり、日銀の黒田総裁も度々参考人として出席され、質疑の場に立たれている。しかし、質問時間の殆どを占める野党委員の質問は、やはり森友・加計の細かい言葉尻を捉えるような議論や財務省関連のスキャンダルに費やされ、国の財政再建の在り方やその具体的な手法についての突っ込んだやり取りは行われて来なかった。情熱を傾ける対象が偏ってしまっている。一方の与党議員は、地元対策のような地銀・信金を巡るミクロな話が中心だ。また、折角、黒田総裁が出席されても、「ご意見を拝聴する」という感じでの質疑が多く、異次元緩和自体の問題点や出口政策の欠如に鋭く切り込むような場面はあまりみられなかった。
 
 おそらく、この政治の機能不全がこのまま続けば、日本の将来は暗雲たるものとならざるを得ないであろう。高度成長期およびそれに引き続くバブル期は、誰が舵取り役を負ったとしてもそれなりの結果が得られたであろう。取り巻く全体の状況が良ければ企業でも国でもトップではなく現場が自ずと組織体を牽引していく。しかし、困難な状況に直面した場合、右にすすむのか左に舵を切るのか、舵取り役に人を得なければ船は難破する。今の国会および政党のあり方では心許ないと感じているのは私だけではないだろう。
 
 ここで政治改革についていくつかの提言がある。大上段に理念を振りかざすものではなく、もっぱら方法論に属するものだ。
 まず一つ目は、「党議拘束」を止めることだ。議院内閣制においては党議拘束が必要との議論もあるが、全国民の代表が国会議員であるという大前提からすれば、むしろ党議拘束がある方がおかしい。党議拘束がなければ議員一人ひとりの選択が鮮明となり、その鼎の軽重が問われることとなる。議員全体の質を向上させることとなろう。
 二つ目は、国会(本会議・委員会)における議論について、きちんと批評するシステムを作ることだ。理想は、大マスコミが各マスコミの理念に基づきこれを報じることだろうが、現実的に期待できない。ネットで定点観測的にこれを行う組織(衆参で委員会も相当数あり、個人で網羅的に行うのは物理的に不可能だろう)が出来ることを期待したい。ちなみに、私は先の臨時国会における衆院本会議および財務金融委員会での質疑とこれに対する評価を個人的に行い、SNSやHPで公開してみた。
  三つ目は、政党助成金を増額し、増額分の使途としてシンクタンクの設置を義務付けることだ。各党の議論を見ると明らかに掘り下げ不足・研究不足のものがみられる。国の行く末を決める国会での議論は、十分に検討され成熟されたものでなければならないことは明らかだ。
 
 今の日本が将来性において乏しいと感じられる、その責任の多くは政治と行政にある。まずそこをかなり根本から変えて行かなければこの国は立ち行かなくなる。また、国民の政治離れが言われて久しく、投票率の低下や世代別投票率をみてもそれは明らかだが、その原因は政治に専門性やダイナミズムが欠如し、魅力が乏しいからではないか。国権の最高機関で、「エー」などという稚拙な野次が飛び交っているようではだめだ。最初の一歩を踏み出すのは今だ。