Monthly Archives: 1月 2019

勤労統計不正よりも深刻なGDP統計に関する安倍首相のフェイク説明

国会前に発覚した勤労統計集計の不正問題。立憲民主党を始めとする野党各党は今国会の重要案件として追及する構えで今日の枝野氏の代表質問でも取り上げられた。

しかし、国の行く末に影響を及ぼすという意味では、より大きな統計をめぐる問題が存在している。

GDP(国内総生産)に関する統計に関して安倍首相が行ってきた説明の問題だ。GDPは日本では国民経済計算として内閣府が算出している。しかし、その算出基準が年度によって変えられてしまっているため、連続性に欠けており、前後の比較を適切に行えないのだ。そして、このことを利用して、実際には伸びていない日本のGDPを「アベノミクスの成果」で成長したと説明してきたのが安倍首相だ。東京新聞が昨年8月に取り上げ、町田徹氏や小塩丙九郎氏などがブログで指摘されているところであるが、2016年に国際基準に合わせるためとして、研究開発費の項目が追加されるなどGDPの総額に有意に影響を及ぼす算出方法の改定が行われた。

 

アベノミクスという経済政策の成果を検証するためにGDPを使うのであれば、それまでの統計データとの補正を行うのが当然だ。ニッセイ基礎研究所経済調査室長の斎藤氏の報告によれば、新基準では2016年第1四半期に名目GDP540兆円を超え、過去のピークを超えているが、旧基準で補正すれば、500兆円程度で、過去のピークである98年第1四半期の520円を下回ったままだ。ちなみに、私の事務所で、研究開発費を除いた比較のためのGDP補正値を使って作成したのが下のグラフだ。これによれば旧基準では1997年の523兆円が過去最高値となっている。

 

グラフ①

 

もう一つ、より根本的な問題がある。アベノミクス開始後のGDPの伸びは、円安によって大きく嵩上げされたものであるという点だ。

国際比較は、基軸通貨であるドル建てで行うのが当たり前であり、ドル建てのGDPピークは、新旧基準2012年の59572億ドル新基準;62032ドル)であったが、2015年では新基準43831億ドル旧基準;41248億ドルに過ぎず、これを大きく下回っている。海外からは、日本の経済力は衰退しているとみられているが、それは数字をみれば単純に示されているのだ。年間平均レート計算)

 

グラフ②

 

統計というものは国家の通信簿、成績表であり、経済、政治すべての事象を評価する源だ。出来るだけ正確に、かつ連続性を持つものであることが必要であることは言うまでもない。ましてや、一国の首相が、自己の最大の経済政策の成果を国民にアピールするのであれば、ごまかしなく正確なデータを元に行うのが当然であろう。繰り返すがアベノミクスという経済政策の成果を検証するためにGDP統計を使うのであれば、それまでの統計データとの補正を行うのが当然だ。その意味で安倍首相がこれまで国民に行ってきた説明はフェイクを含んだものであり、ファクトチェックが必要なものと言える。

保守やリベラルという立ち位置、あるいは党利党略を超え、こういったことを正直に、真摯に検討することが日本の将来に繋がると思うが皆さんはいかがお考えだろうか。

 

 

この同調圧力に疑問はないのか?

人間は社会的動物。時代に応じてその形態は変化するが、支配ピラミッドを形成することや集団的行動をとる習性は、DNAにプロムラミングされた逃れられない宿命なのかも知れない。

日本で暮らす我々は、隣国の世襲制指導者を頂点とする昆虫社会のようなシステムに違和感を感じる。しかし、個別の問題を見ていると最近の同調圧力が増すばかりの今の日本の状況も、実は大差ないのかも知れない。

例えば、嵐の活動休止宣言時のマスコミインタビューでひとりの記者が遠慮がちに質問した「無責任」という言葉に対する集団的反応。一方向に形成された劇場的雰囲気に反する者は、絶対に許されないようだ。同じ方たちが、別の場面では不確かな情報で誰かを吊るし上げるときには、遠慮会釈なく激しい言葉で責め立てているというのに。

どなたかが書かれていたが、魚の群れが一斉に方向を変えるのに逆らうことは許されない社会になってきている。

小室さんの問題でも、どう考えても裏のありそうな話を表面的に流れている情報だけで一個人を批判する風潮は続いている。

 

話を少しだけ政治に戻す。日本の政党政治に欠けているもの、それは個々の政治家の資質・能力・基本的な考え方に関するチェックだ。なぜその当たり前なことが行われていないのか。それは党議拘束という究極の同調圧力が存在しているからだ。党議拘束のないアメリカでは、民主党も共和党も2年に一度の党大会くらいしか民主党も共和党も集まることはなく、議員個々がそれ以外は勝手に活動していると何かで読んだことがある。党議拘束が続き、一部のボスが公認権を盾に全権力を握る現状が続く限り、国会議員は全国民の代表という建前との乖離は続くだろう。

施政方針演説に思う。トレードオフなき政治

本日、第198回国会が開幕し、安倍総理の施政方針演説が行われた。その内容として、例えば朝日新聞は夕刊で「首相、国会で統計不正陳謝」「消費増税「どうしても必要」」との見出しで報じている。「対ロシア外交」について焦点を当てたニュースもあるようだ。

今回の演説で取り上げられるべきは果たしてそこにあったのか。今日その演説を本会議場で聞いて率直に思ったことを書きたい。

政治の本質である「トレードオフ」の視点がその約50分に渡った演説には欠けていた、ということだ。ただし、それは政権与党だけの問題ではない。

最初にお断りしておくが、私は、左と右、保守とリベラルという観点で政治を見ることは既に時代に即していないと考えている。イデオロギーが結果を生むことに任せていれば国民に多大な損失が生じる、それが第一次世界大戦以降の歴史の結論ではないだろうか。最も合理的(それは単にその瞬間に合理的というだけでなく、10年、20年という長期的スパンも含めての合理性)な政策を選択することが国民全体、国家全体の幸福に繋がる。例えば、国防の負担を省き、高度経済成長に専心した日本の幸福につながったものだったし、逆に世界を軍事的に制覇し続け、自己のルールを世界のルールとしたアメリカが、近代以降では最長の繁栄を謳歌している。

だが、それぞれの国の歩み方はそれぞれの国にトレードオフをもたらした。日本は、一時は世界第二位の経済大国にのし上がったが、結局安全保障を全面的に依存した結果、米国の意向通りの政策しかとることが出来ず、沖縄に集中する米軍基地の問題、首都圏の空域の問題、そしてF35など武器調達問題でも、独立国としての自主性を持つことは出来ないままだ。一方、アメリカは、アメリカ・ファーストを常に掲げ、国民や世界に自国への忠誠をどんな犠牲を払ってでも要求し続けなければならない。それはそれで辛い道だろう。

しかし、それが政治であり現実だ。利益のあるところ犠牲はつきものであることは仕方のないところだ。

話を元に戻そう。安倍総理の施政方針演説を聞くと、全方面に対し目配り、気配りがなされている。一見、素晴らしい政治だ。富めるものも貧しいものも、地方も、中小企業者も、時代の先端をゆく企業も、そして農林水産業も全ての層が恩恵を被る予算が組まれ、支援されているとのこと。だが、そんな魔法はあるのか。トレードオフなく、本来対立関係にある全ての階層が幸せになれる「一億総活躍」政策など存在するのであろうか。

その答えは施政方針演説では2行しか語られていない部分にある。2025年に先送りされた財政健全化の問題である。財政健全化が語られているということは、現在の財政が不健全ということだ。麻生財務大臣の財政演説で触れられているが、税収が過去最高の62兆円となっているにもかかわらず、結局新規国債発行額は32兆円にも上っているのだ。

何と何がトレードオフしているのか。答えは簡単だ。

「現在」と「未来」がトレードオフされているのだ。未来に対しての負債を我々は名実ともに残し続けていることを自覚しなければならない。

アメリカ政府正常化をもたらした遠因 トランプの暴走を止める三権分立

アメリカの政府機関閉鎖がようやく終わり、正常化される。

トランプ大統領がメキシコ国境の壁建設費を盾に、政府機関を再開するつなぎ予算に署名してこなかったため、政府機関が1か月以上も一部閉鎖されてきた異常事態がようやく終わるのだ。

 

アメリカというところはすごいところで、これで80万人の政府職員が無給で、商務省・環境保護庁・教育省のほぼ全員、財務省や国防総省・運輸省の半数が自宅待機であったというから、その影響はとても大きかっただろう。

先の中間選挙で上院の勢力が拮抗し、共和党が53、無所属を含む民主党系が47、単純過半数なら大統領与党である共和党が提出していた壁の建設費を含んだつなぎ予算案が成立するところだが、議事妨害を終わらせて採決に持っていくためには60人の賛成を必要とする規定があるそうで、成立しないままが続いていた。アメリカでは、党議拘束がないので、壁建設費を含まない民主党案に賛成する共和党議員が6人出たそうだが、これもやはり60人には達せず、膠着が続いていた。

 

トランプ大統領は、まさにウルトラCのような方法として、大統領権限による非常事態宣言を行い、国防総省に壁を建設させるということを検討していたようだが、これは実行されなかった。

 

今までも、まさにやりたい放題をしてきたトランプ大統領が、予算を人質にとり、選挙公約の「壁建設」を押し通そうとしたができなかった背景、「非常事態宣言」発令をしなかった理由はどこにあったのか。今朝の朝日新聞が久しぶりに読み応えのある内容の特集を組んでいたが、そこに短くその答えが示唆されていた。前例のないこの手法について、民主党が司法に訴えれば裁判所によって無効とされる可能性があるとホワイトハウスの法律顧問団が判断したというのだ。

そこで思い出されるのは、トランプ大統領が就任直後、イスラム圏などからの入国を禁止する大統領令を出し、空港で大混乱を生じた時のことだ。2017年3月にハワイ連邦地裁の判事がこれを差し止めて、混乱を収めたことがあった。2017年12月に連邦最高裁が一時差し止めを解除して実施を認め、2018年6月に連邦最高裁で大統領命令は最終的に認められたが、地裁レベルではハワイ州以外でも異なる判断が相次いでいた。

これとは別に、メキシコ国境から米国への不法入国者による亡命申請を拒否する大統領令について、サンフランシスコ連邦地裁が一時差し止めを命じていたが、これについては2018年12月、連邦最高裁は一時差し止めを支持した。

つまり、いかに強権的な大統領、すなわち行政府が無理を押し通そうとしても、司法府すなわち裁判所がタイムリーにこれについて判断を行い、差し止める、つまり抑止力を発揮しているのである。これこそまさに三権分立である。

 

一方で我が国の現状はどうか。一般にはあまり知られていない、「統治行為論」という考え方が昭和34年という古い最高裁大法廷判決(砂川事件)で確立されて以来、司法が行政府の行き過ぎにストップをかける、という機能は失われている。国家行為の統治の基本となるような高度な政治性をもつ事柄については、司法審査の対象からはずす、という理論である。

しかし、小選挙区制が導入されてこれが定着し、有権者の割合に比して少数の得票で議会において圧倒的多数を得るという近時の傾向がある。さらには公認権を握った党幹部の権力が圧倒的になっているという実態も存在する。この両者によって、行政府と立法府の相互抑制が機能せず、あたかも大統領制の国であるかのように、権力が政権与党の中枢に集中している。

これを抑制する力として期待されるのは、憲法の建前どおり、司法すなわち裁判所なのである。砂川事件判決は、終戦後間もない時期の判決であり、その判断には我が国に当時絶対的な影響力をもったアメリカの意向が働いていたことが近時の研究により明らかにされている。

それから60年が過ぎた。権力の集中を是正するシステムとして、今の時代に即したスピーディかつ果断な裁判所の活躍が期待される。

大統領の法律顧問団が裁判所の意向を推し量って政策決定をするほどの司法判断の尊重が、本来あるべき先進国の権力均衡システムなのだ。

通常国会での予算案審議。財政危機についての議論を

国民民主党と自由党の合流や北方領土返還に絡んだ日露首脳会談、レーダー照射に絡む日韓問題,統計不正問題など、前触れとしては賑やか過ぎるほどの話題に事欠かない毎日だ。しかし、通常国会の最大の課題は言うまでもなく予算案審議だ。

そこで注目されるのが、どの政党が「未来」に責任感を感じているのかということだ。

ジョージ・ソロスと一緒にクォンタム・ファンドを創設した伝説的な投資家ジム・ロジャーズは、日本の財政状況について一貫して悲観的見方を披露しており、昨年には,もし自分が10歳の日本人ならば自分自身のためにAK-47を購入するか、もしくは、この国を去ることを選ぶ。なぜなら、いま10歳の日本人はこれからの人生で大惨事に見舞われるだろうとまで語ったと,週刊現代は報じている。

ジム・ロジャーズならずとも、今の日本の財政状況について、客観的な判断力を持つものなら誰しも不安を感じているだろう。

リーマンショックというアクシデントがあったにせよ、財政支出と税収の差額は、平成16年以降毎年50~30兆円にも上り、その分は国債という名の借金に依存している。

まるでバブル期に異常に多発した多重債務者の家計のようだ。

そして、毎年発行される国債は、ついには民間金融機関では支えきれず、日銀が異次元緩和という名目で、紙幣を刷りまくり買い支えているのだ(実際には紙幣を刷るまでもなく日銀の当座預金口座に残高をインプットしているだけだが)。すなわち、黒田総裁就任後、事実上の財政ファイナンスが続けられているのだ。その結果、2018年9月に999兆円に達した国債残高のうち44.6%、額にして445兆9347億円は日銀保有だ。

これを放置することが、責任ある政治と言えるのであろうか?しかも、国債発行は30年債、40年債などの超長期国債にシフトしている。つまり、今我々が使うお金を返済するのは30年後、40年後の国民なのだ。

一方で財政収支への懸念を示し、プライマリーバランスの均衡を唱える政治家は、野田元首相など少数なのが現状だ。相も変わらず,財政への懸念を示す少数の政治家や評論家を、財務省の支配下にあるとか、財務省に騙されているなどと根拠なく非難することが右左問わず盛んに行われている。そして財務省バッシングは止むことがない。

しかし、日銀マジックはいつまでもは続かない。平時であれば、財政ファイナンスは直ちに円安およびこれによるコストプッシュ・インフレという形で国民の生活を直撃していたであろう。ところが、この財政ファイナンスの悪影響が顕在化していないのは、おそらく米国、EU、中国といった世界の主要国の中央銀行がリーマンショック後、日銀に先行して同様の量的緩和政策をとってきたせいであろう。一国のみが突出して通貨発行量を増やせば、あまり時間を置かずにその国の通貨安を招き、ハイパーインフレを引き起こすことになるだろうが、みんなが協調して行えば目立たなくなる。みんなが通貨の価値を薄めれば、相対的な均衡が保たれることとなるのだ。まさに「みんなで渡れば怖くない」政策が世界的に協調して行われてきたのだが、ここにきて米国、EUはまずは量的緩和政策を停止し(テーパリング)、段階的な資産縮小に移行しようとしている。そんな中で日銀のみ出口政策が取れないとなれば、最悪のシナリオとしては円の信認が失われ、ハイパーインフレが日本を襲うこととなる。

政府与党も、2020年度プライマリーバランス均衡目標を先送りしたとはいえ、2025年度にこれを達成するとしている。しかし、史上初めて100兆円を超える当初予算を組んでいるその姿勢からは、どこまで本気でこれを達成しようとしているのかは極めて疑問だ。

そこで注目されるのが各党の予算案審議における姿勢だ。

「未来への責任」を自覚した質疑がどれだけ行われるのか。財政におけるモラルハザードの蔓延をどう改善していくのか。日本社会あるいは日本国民に待ち受けているであろう経済的危機を回避するため,各政党の利害を超えて真剣な議論が始められなければならない時機が来ている。枝葉の議論も勿論大事だが,国の将来の骨格を話し合うことも同じように行わなければならないことは言うまでもない。

困難が待ち受ける日本の未来を担っていける政党はどこであるのか。国会における審議を通して、それが示されるであろう。注目したい。

国民民主党と小沢氏が合流。本当のブルーオーシャンを掴むのは誰か

国民民主党と小沢氏が合流すると報じられている。先の国会の代表質問などを拝聴しても、玉木氏や国民民主党が対案路線を意識されていたことは明らかで、徹底対決路線の立憲民主党とは異なる路線を志向されていた。

 

問題は、今回の合流が国政選挙での勝利や政権交代に繋がるのか、ということである。小沢氏は、元々政権交代可能な二大政党制を目指して日本に小選挙区制を取り入れ、今の政治の在り方を規定された方なので、玉木氏と目指すところは同一だろう。

しかし、国民民主党の支持率が低迷している原因の改善には繋がるとは思えない。それは、国民民主党を国民が支持していない理由にある。国民民主党は,民主党時代と変わらず連合の支配下にあるからだ。最近の実例として,原発反対を唱える有力労組出身の地方選挙候補予定者が,連合の支持から外されたことがあった。結局,特定の利益団体の権益擁護が相も変わらず連合の本質であり,国民民主党にそれが色濃く反映している。

小沢氏が幹事長になったとしても,連合との関係を見直さない限り国民民主党は変わらないだろう。国民はそれがわかっているのだ。

政治におけるブルーオーシャンは広がっている。今から2年程前,福島瑞穂氏が静岡に来られた際,30分ほどであるが1対1で話をさせていただく機会があった。反原発など主張を明確にされ,既存の既得権益団体から解き放たれたリベラル政党を作ればきっと成功しますからお考えになったらいかがですか,と申し上げたが,考えたことはない,とのお話であった。既得権益団体freeの合理的な政策を掲げる政党が出来れば,間違いなく国民の一定割合を掴む勢力となる。その予想どおり,立憲民主党は先の衆議院選挙で野党第一党の票を得た。

さて,この先である。今の自民党・安倍政権が強いのは当たり前だ。日銀という打ち出の小槌を手に入れ,税収に縛られることなく全ての層にまんべんなくお金をばらまいている。おまけに人口減少による人手不足で,景気実態にかかわらず失業率は極めて低い。どこの国でも与党が敗北するのは,若者を中心として失業率が高まるときだ。

だから,現政権については,時折噴出する様々な問題で時折支持率が下がるものの,職もあり,それなりの政策的恩恵を享受している国民が不満を継続的に抱くには至っていない。安倍首相が私こそリベラルというのもある意味そのとおりだ。「大きな政府」は,従前の概念でいえば革新政党,リベラル勢力の目指すところだったからだ。

ただし,その代償は存在している。無理な財政支出=日銀の財政ファイナンスによって支えられた今のゴルデロックス経済は,いつ暴発するかわからない「円」への信用失墜という時限爆弾を抱えているのだ。

私は,野党は今は我慢の時期だと思う。政策的な一致なくして無理な政権交代を目指せばまた前の繰り返しがあるだけだろう。政権を取った途端,内紛が果てしなく繰り返され,やがては分裂にいたる。小沢氏が歩んできた道は政権与党分裂の道であった。政策的一致を事前に詰めることなく,反自民,立憲主義などあまりに大まかな統一点のみで仮に選挙に勝ったとしても,その後政権を取れば,現実の課題に直面する。その度に喧々の議論をしていれば,分裂は目に見えている。

やがて日本は真の困難に直面するであろう。それは円の信認が失われることによるインフレかもしれない。世界的な景気後退により,遂に失業率が高まることもあるだろう。それはそんなに遠い未来ではない。

ブルーオーシャンは,既存の政治的手法や既得権益fullな政党に開けているわけではない。政治を見限った,あるいは政治に興味のない半分以上の国民の中にある。そのブルーオーシャンは,その困難を切り抜けることのできる斬新かつ合理的な政策を掲げられる政党にこそ開けるだろう。

そして,そこを狙う政党は,政権を担うときに備え,合理的な政策を示し続け,きちんとした存在であることを国民に認識させ続けることが肝要なのではないだろうか。政治以外の全ての組織が変容している。政治も変わるべきときなのだ。

ゴーン事件で日本が失うもの。

日産のカルロス・ゴーン氏が逮捕され,起訴後も勾留が続いている。

この事件では,検察や現経営陣によるとみられるリーク報道が続き,マスコミを利用した既成事実作りや強引とも思える捜査手法を批判する声も多い。

 

この事件で私が危惧するのは,海外の有能な人材からの,日本社会に対する信用失墜だ。元々,ゴーン氏は,会社の存続すら危ぶまれる危機的財政状況にあった日産が,日本人経営者ではできない改革を期待して招聘した人物だ。

ゴーン氏は見事に期待に応え,系列取引や幹部職員の天下りで生じていた関連企業との癒着などを排除し,2兆円を超える借金を僅か4年で完済し,日産を「リバイバル」させた。

それから,10数年,ゴーン体制が継続する中で起きたのが今回の事件だ。

 

私が不可解に思うのは,今回の起訴事実や容疑事実をなす行為が,東証一部上場企業である日産の業務事項として行われたものであるということだ。

ゴーン氏の弁護人によれば,社内規則を無視して行われた行為が立件されているのではなく,社内的な手続きを踏んで行われた行為が事後的に違法と評価されているようである。それはそうであろう。いかに実力経営者といっても単なる雇われ社長に過ぎないゴーン氏が,社内の形式的な手続きを無視できるはずはない。逆に言えば,ゴーン氏の容疑として指摘されている事実-特に報酬に関する事項や第三者へのまとまった額の支払は,他の取締役会や担当役員などの承認を得て行われていたはずである。

さらに,金融商品取引法の被疑事実とされる,報酬の後払い分が有価証券報告書上未記載だったという容疑は,最初の報道時から首をかしげた。取締役に退任後報酬を支払うためには,株主総会での議決(さらにそれに先立ちこれを株主総会の議題とするための取締役会の議決)が必要であり,法的には未確定というしかなく,これが記載されていないから同法に違反するというのはあまりに無理があるからだ。

 

また,自白をしなければ保釈しない,という日本の刑事司法のあり方は先進国からみれば,野蛮としかいいようのないやり方だろう。しかも,勾留中のルール(接見の方法や人の制限だけでなく,日常生活動作まで制限される)の厳しさは欧米人にとっては驚きだろう。

 

そして,ゴーン氏が得ていた報酬は世界標準からすれば決して巨額ではない。三菱自動車やルノーから得ていた報酬を合算してもフォードやGMなどのCEOに及ばない。倒産寸前といっても過言でなかった日産を救い,長年順調な経営を続けてきた彼の功績からすれば,決して多すぎるとは言えないであろう。

 

以上を踏まえたとき,今回の事件を海外の,しかも有能な人材はどう見るであろうか。

大きな成果を上げても,彼らからすれば妥当な報酬額以下しか得ることが出来ず,しかも何年も後から社内手続きを踏んだ行為が違法と評価されて逮捕され,これを否認しているだけで長期間の勾留を余儀なくされる。

有能な人材であればあるほど日本という国の企業経営に携わることを敬遠するであろう。

しかし,これは日本にとっての損失である。順調なときはどのような人物があたっとしても,会社の業績にさほどの差異はでない。しかし,逆境の時こそ,舵取り役にどのような人物があたるかで大きな差が生じる。アップルがウインドウズとの競争に敗れ,苦境に陥った際に招聘したのがスティーブジョブズ氏であり,彼が何をアップルにもたらしたかはご承知のとおりだ。

あのとき,日産にカルロス・ゴーン氏がいなかったなら,いまの形で日産は存続していただろうか?

日産やアップルで起きたことが日本の企業で再び起きたとき,救い主を外国人材に求めることはもはやできないであろう。

 

迫りつつある国会の終焉。国会リバイバル・プランを。

もうすぐ,第198回通常国会が始まろうとしている。本日(18日)11時からの衆院議院運営委員会で官房長官から28日召集が提示された。

だがまさに今、我が国の国会は静かに終焉を迎えつつあるようにみえる。司法の世界から飛び込んできた私にはそんな風景に見える。ご承知の通り、現状、多数決という意味では全ての法案審議についてその結果は見えている。しかし、問題はそこではない。

国会に議論が存在していないのだ。

本会議の代表質問や討論が、事前通告された質問に対して、総理や大臣が、官僚の手による当たり障りのない答弁で応じるという形式的なものとなっているのは周知の通り。

一方通行のやり取りが延々と続くのだ。

率直に言ってこの形式を続ける限り議論が深まることはない。

そして党議拘束で縛られた各党議員に賛成反対の自由はないため、採決が討論の影響を受けることもない。選挙の結果で、全てが決まっているのと同じだ。国会は政府案のお披露目の場に過ぎない。

野党は抵抗手段として、委員会委員長や大臣の解任決議案を提出するが、法案審議のペースが乱されることすらない。

 

実質的な審議が期待されるのは委員会だが、野党委員の質問で大臣が立ち往生することがあっても、それは本質的な議論の応酬の結果ではない。政府の不誠実な答弁や大臣の個人的資質による立ち往生によるものだ。そもそも答える側において、官僚の作成したペーパーではなく自分の考えで答弁されるのは麻生大臣などごく少数に過ぎない。

議論が活性化しないのは答弁者だけの問題ではない。十分に準備された用意周到な質問ばかりではなく、精神論だったり揚げ足取り的なものもある。総じて生産的な議論がなされているとは言えないだろう。

 

だから報道においても、大臣答弁の言葉の揚げ足取り的な批判がなされることはあっても、本質的な議論の応酬が取り上げられることは数少ない。

 

民主主義には様々な要素があるが、多数決だけが本質ではない。少数派も交えた議論による議案のブラッシュアップも重要な要素である。そこが完全に麻痺してしまっているのだ。

国会がこの機能不全を続けていけば、国民の関心が失われるだけではない。役に立たないものとして国民から軽視される傾向が強まるであろう。それが国家の将来として望ましいものではないことは勿論のこと、まずは全ての政党、議員にとっての不利益となる。

党利党略を離れ、自らの価値を高めるために党利党略を超えた国会リバイバルプランを作るべき時期に来ている。

ここで,具体策を若干提案する。そんなに難しい話ではない。

1.本会議は,演説的類型のものと討論型を区分する。代表質問などは各党の主張を明確にするものであって,前者として従来型で良いだろうが,法案審議に際しての質疑は,委員会のように対質に改め,本会議でも実質的な論戦を行う。この際,フランスの対政府質問のように,質問内容の事前通告制度はなくし,自由で率直なやり取りができるような制度設計とすべきであろう。フランスでは「メディアの注目の集まる場で短時間に凝縮された発言が繰り返され,緊張感のある質疑が生まれている」(主要国の議会制度・立法と調査2007.10 No.274より引用)とのことである。

2.法案については政府側に計画的な審議を義務づけ,一方,質問者側にも2日程度の事前通告の期限を設け,官僚に無理な準備を強いさせないと共に実のある答弁の前提を整備する。

国民の政治に対する信頼を取り戻すためには,まずは質を上げること。当たり前のことであろう。

がんの自由診療に潜む問題。がん患者が金儲け医療の犠牲になっていないか。

誰しもがんの告知を受ければ動揺する。それが、自身のことであろうと、最愛の家族であろうと。

昔からそこにつけこむ悪質な商法があった。ひと昔前であれば、いわゆる代替療法(健康食品・サプリメント)であったが、警察による薬事法違反(誇大広告)の摘発もあり、一時よりはなりを潜めた感がある。

そんな中、最近私が警戒しているのが、特定の開業医による様々な自由診療だ。我が国においては、各種臨床試験などを経て効果が確認された治療法は、保険適用がなされ、高額療養費制度もあるため、患者は、一般的には許容範囲と考えられる自己負担額でもって治療を受けることができる。

ただし、医療は、保険診療がすべてではない。大学病院などで日々取り組まれている研究段階の医療(臨床試験、治験など)や、法律によって認められていて一部保険給付がされる先進医療などがあり、このような治療は保険適用がある治療よりも患者の負担額は高額となる。これらは、先端的医療技術や新薬の研究開発を進めるためにやむを得ないものであり、医学の発展を促すものであってやがては国民の利益となる。

私が問題視しているのは、これと異なり、WEB上の広告や記事などで盛んに喧伝されている、効果が不確かながん治療に対する自由診療だ。(それに加えて、最近は輸入医薬品(話題の抗がん剤オプシーボなど)を使った問題の多い治療があることも医師の方が報告されている。)その費用は一回あたり数十万円、総計数百万円に及ぶことが多いようだ。生命にかかわることが一般的ながんという疾患の場合、人は告知を受けた瞬間から治療のための情報を探し始める。ネットには情報が溢れているからだ。

そこにつけこむような医療が行われても、高額の治療費を提示されても、自身や家族の「命」が懸かっているとなれば、人は預金をはたいてもそれにすがってしまうのである。これは、絵空事ではなく、弁護士として実際に受任している事件を通して知った残念な事実だ。

また、健康食品などと違って、例えいかがわしいものであっても、医師が行うものであると捜査機関は摘発しにくい。医療過誤バッシングにより医療関係事件は事実上刑事司法にとっての「聖域」となり、アンタッチャブルな領域となっているからだ。

 

ただ、この現状が放置されてよいはずもない。このような問題があること自体、あまり知られていないが、良識のある医師の方々はすでに眉をひそめている。日本医師会、あるいは厚労省などが一定の指針をまとめ、広く国民に告知することが望ましい。

経団連会長発言に思う。リスク管理の不在

経団連会長が,「再稼働どんどんやるべきだ」と発言したと報道され,波紋を呼んだ。

原発には賛成,反対の立場があり,経団連会長かつ日立製作所会長であればポジショントークとしてでもそのような発言に至るのは当然との見方もあろう。

しかし,今の世の中,それでは通用しない。企業が存続し,発展するにはリスク管理やリスク判断が欠かせない。特に企業の存亡にかかわるような事項については十分な注意を払い,リスクが大きく上回るような事業からは手を引くのが経営者の役目だ。

原発について,色々な意見があるが,企業にとっての損得という意味での経済的視点から語られることは少ない。しかし,原発を運営する電力会社にとってもこの視点は欠かせない。投資家からもシビアな評価が寄せられる米国では,発電コストの問題での廃炉(バーモント州・ヤンキー原発),建設コストの問題での断念(米南部サウスカロライナ州のVCサマー原発2、3号機),州との合意による廃炉(ニューヨーク州・インディアン・ポイント原発)など様々な理由で廃炉を行っている。勿論,全面的な廃炉政策が進められているという訳ではなく,稼働している原発も多い。ここで米国の例を引いたのは,一律に「どんどんやる」などという思考停止的なやり方ではなく,極めて現実的な判断の下,企業の自主的な判断が行われている,ということを紹介したかったからだ。

 

日本における原発にもその条件によって,コストも異なるし(立地条件が厳しかったり老朽化していれば安全対策コストが増大する),各電力会社によって原発依存度も大きく異なる。原子力規制委員会の適合性審査を通ったという事実は,最低限の基準をクリアしたことを意味するに過ぎない。当の規制委員会委員長が「絶対安全っていう意味で安全ということを言われるんでしたら、それは私どもは否定してます」と過去に述べたとおりだ。

適合性審査を通った,あるいは通して原発を再稼働させるべきかどうかは,各電力会社が自己の存続をかけてシビアな判断をなすべき政策判断なのだ。経団連会長が無責任に「どんどんやるべき」などというべき問題ではない。その結果,「どんどん」やった電力会社が破綻したら,会長は責任が取れるのであろうか?

 

例えば,福島第一原発事故では,当時の民主党政権が原子力損害賠償機構を設立し、同機構を通して東電を支援する枠組みを作り東京電力をつぶさない政策判断を行った。政府支援がなければ,東電は倒産していたのであり,合理的なリスク判断を他の電力会社は否応なしに行っていたであろう。本来であれば,東電は民間企業として「破産」という形で責任を取らせ,被災者には原発政策を国策として押し進めてきた国の責任を認めて特例法などを制定して救済すべきだったのであろう。しかし,この誤った政策判断により,電力会社各社はリスク管理という点で国からの救済という「天の助け」を潜在的に期待できることとなり,以来,「どんどんやるべき」的な大凡前近代的なやみくもかつ横並び的な再稼働を各電力会社ともに押し進めてきた。

 

しかし,である。電力自由化が推進され,思わぬほどの技術革新が相次ぐ昨今,災害による重大事故発生による損害に限らず,原子力発電事業が重荷となり,電力会社が経営的に行き詰まることは当然あり得る。また,安全対策コストだけでも割りに合わない原発もあるはずだ。例えば,中部電力の運営する浜岡原子力発電所。中電の原発は浜岡だけで,発電量に占める割合は2011年以前でも概ね10~20%,2012年以降はゼロだ。ところが,南海トラフの巨大地震想定震源域に位置して震度7の激震と20m前後の巨大津波が想定されるなど厳しい立地条件にあり,既に4000億円以上の安全対策費がかけられているが,さらに防潮堤の高さ不足を原子力規制委員会から指摘され,嵩上げを迫られているという。安全対策コストだけを考えても,通常であれば原子力発電事業からの撤退を考慮するべき時期に来ている。

一方,万一事故があれば,首都圏,名古屋に近く,東海道新幹線や東名高速道路とも近接しているところから福島第一原発事故の比ではないほどの被害や賠償責任が生じる恐れもあり,中部電力どころか日本という国の存続も危ぶまれる。

 

こういった,マクロなリスク管理というのを行うのが日本人は苦手だ。第二次大戦前の対米開戦時のリスク判断の誤りが改まることもなく,現在に至っても東芝や三菱重工業などの世界的な大企業が大変な規模の損失を出しているのも,リスク管理やリスク判断の誤りから来るものである。経団連会長ともあろう御方が,精神論で開戦を唱えたようなことを今時おっしゃっているのはどうか。

原発も経営である。シビアなリスク判断を行ってもらいたい。