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少子化を巡る考察。受け入れることを考えてみる時期が来ているのかもしれない

 今の日本が悪くなっているのか?この疑問について客観的に正しい答えを見つけるのは難しい。ニュースなどで報じられる事象はセンセーショナルで特異的なものであって一般的傾向を表したものではない。かなり前になるが報道ステーションで、古舘キャスターがある少年事件について報じた時に「凶悪化する一方の少年犯罪」とコメントして違和感を感じたことをよく憶えている。実際には、日本の青少年の殺人率は減少する一方で欧米からは不思議がられていたからだ。この手の思い込みは良くあることで、「FACTFULNESS」という海外のベストセラー本に統計結果が駆使されてわかりやすく纏められているので興味のある方はお目通しされたい。

 さて、前回のブログでは、為替マジックもあって、国外から見れば明らかな下降線ながら、国内視点では日本経済は低位安定、政治的不安定を招く若い世代の失業率は人口減少により改善されるばかりなので、リベラル層の強い批判とは裏腹に安倍政権は安定して継続してきたことを分析した。これは,今の日本が過去に比べて特に悪くなったとは評価できないことを反映している。むしろ、今の世の中の良いところは,別に政権の恩恵がなくとも物事が着実に進歩していることなのだ。

 例えば,最近池江選手が罹患されたことから話題となった白血病。一昔前のイメージと異なり治療法は大きく進歩し,不知の病というイメージは当てはまらなくなった。医療にとどまらず携帯電話の普及率からウォシュレットの普及率,アパートや一戸建ての品質の向上まで,科学技術進歩の恩恵で世の中は実は着実に良くなっているのだ。

 したがって,政権与党には基本的に有利な条件が与えられている。

 

 しかし、特に日本の経済及び社会制度に関する未来予測に限ってみれば、やはりこの先楽観できない状況ばかりが目に付く。この難問について与野党あるいはこれからできるかもしれない新勢力がどう取り組むのか。ここは極めて興味深いところである。だが,前々から言及しているとおり,今の国会ではもっぱら「過去の事象」についての議論が主となり,「今これから」や「近未来」についての議論はほとんど行われない。これは政治家稼業に長らく携わっている方や特に政治に強い関心を抱き続けて来られた方以外には,実はかなり不思議な現象だ。企業でこういう議論ばかりしていればあっという間に潰れてしまいそうなところだが、55年体制以来、日本の政治はこの伝統から離れることをしていないようだ(この点を含めた国会改革論議についてはまた別の記事で)。

 そんな残念なところも目に付く国会で,近未来対応の政策が話し合われている課題がある。「少子化」「人口減少」「高齢化」である。これらは密接に絡み合う課題であるが,すべてを一気に論じるのは難しいので,今日はまずは少子化と人口減少について考えてみたい。

 

 この問題については,政治活動を始めた3年位前から懸念を述べていたが,当時はあまり世間的注目は集まっておらず騒ぐものもなかった。しかし,ここ1年ほどの間に急激に問題視されてきた。おそらくは団塊世代の一斉退職もあって労働力不足が深刻化したことにより、喫緊の課題として使用者層にこれが認識され始めたからなのであろう。

 安倍政権も少子化の問題に対し、保育所の無償化・高等教育の無償化などで取り組む姿勢をみせている。野党でも,国民民主党の玉木氏は第三子を設けた家庭に1000万円(コドモノミクス)を付与するという大胆な提言をされている。いずれも取り組みとしてあり得る施策である(ただし、現政権の保育所無償化政策は,むしろ子育て年代の女性を労働力として取り込むことに眼目が置かれた施策であろう)。

 

 いずれにしろ少子化対策には財源の問題が避けて通れない。現政権は,消費税増税分を充てていると主張するだろうが,国債依存が30~40%の現在の財政状況からすれば,消費増税の使途が国債減額に使われなくなるので全体としてみれば、将来の子らは恩恵分の何倍ものつけ回しを受け取ることとなる。この点、玉木氏は堂々と「子ども国債」を財源としてやるべきと述べられており,その正直な姿勢には好感が持てるが,国債に頼る以上やはり同じことではある。子どもたちのことを考えれば,やはり法人税・消費税上げを視野にいれ、将来へのつけ回しを出来るだけ少なくする議論が必要であろう。

 

 少子化対策の問題は財源だけではない。何よりの問題は,フランスの例をみても少子化対策を始めてから効果が目に見えるまでには数十年単位の時間(フランスでは50年)がかかることだ。50年といえば2070年頃。現在の予測では2050年には人口が9500万人となる見込であり,今から少子化対策に取り組んだとしても、減少のカーブが多少緩やかになる程度であろう。

(出典:総務省ホームページhttp://www.soumu.go.jp/main_content/000273900.pdf

 そもそも,何故日本は少子化になっているのか。実は少子化は日本に限らず先進国に共通した現象である。アメリカこそ人口が増え続けているが,これはヒスパニック系住民の出生率の高さ(なんと2.96!)やメキシコや中南米から大量の移民があるアメリカ独自の事情(是川夕・岩澤美帆「増え続ける米国人口とその要因」)によるもの。長年続けた一人っ子政策をようやく廃止した中国でさえ,若い世代は子どもの数を増やそうとはしていない。

 中国も日本も、そして欧米も共通したことであるが、教育費(授業料だけでなく,スイミング,英会話,ピアノ,スポーツクラブそして塾など習い事費用もある)の費用負担は先進国の家庭では極めて大きい。また、個人(あるいは夫婦で)の楽しみの追求は、子育てによって中断せざるを得ないが、子育て期間が終了すればこれは再開できる。一定の経済的レベルに達した国民にとって、子育てと人生の楽しみをバランスさせた結果が子どもの数は少なくていいという結論なのだ。

 これらは、あくまで現代的事情による動機の面での少子化だが、自然的・生物学的な面、すなわち自分たちの遺伝子を次の世代に残すという戦略の面でも、現代社会では子どもの数が少なくてよいという子育ては、理に適っている方策だ。

 例えば近世1600年代のイギリスにおける統計学の創始者ジョン・グラントの調査によれば、当時の6歳以下の死亡率は36%にものぼっていたという。そうであれば子どもをたくさん産んで生き残る数を確保するという戦略は、自分たちのDNAを次世代に残すために必須の戦略となる。

 しかし、現代における医学や食料事情の好転は、状況に劇的な変化をもたらした。ユニセフによれば日本の5歳未満の乳幼児死亡率は2016年で0.3%に過ぎない。したがって、昔のように多産して生き残る子どもの数を増やすという戦略をとる必要はなくなったのだ。それよりも、子どもが他者との社会的競争に打ち勝っていけるよう、そこに投資をつぎ込むという方が子育て戦略としては合理的なものとなる。

 

 このような状況に鑑みれば、ちょっとやそっとの政策的配慮では到底少子化は改善できないことは容易に理解できるだろう。子どもへの政策的投資の多寡によって出生率が変化するというOECDの調査結果もあるが、いずれにしろ出生率2以下での話である。

 となれば、少子化は先進国に共通した現代的傾向としてこれを受け入れるという考え方も選択肢としてありうるものとなる。

 無理な投資は避け、少子化を前提とした国家形成を考えた方が合理的な政策形成だと言える余地は十分にあるのだ。

 また、見方を変えれば、少子化は先進諸国でもっとも問題となる若年層の失業率を限りなく減少させる有効な要因となる。少子化にも都合のよい側面があるのは事実だ。

 

 ただし、日本の場合には年金が積立方式ではなく賦課方式なので、この方式を維持する限り、少子化による人口減少が続けば高齢者世代の年金=生活が成り立たなくなる。

 実はこの点についても解決策が提言されているが、それは次のブログで。