青山まさゆきの今を考える > 新着情報 > 国策としての少子化対策は個人の選択と対立する。教育無償化はベーシック・サービスに過ぎない。

国策としての少子化対策は個人の選択と対立する。教育無償化はベーシック・サービスに過ぎない。

 少子化は時代の進化の産物であり、自然の流れとして受け止めるべき時が来ているということを先のブログに綴った。少子化という社会現象を客観的に分析したのである。今回は、これを主観的にというか政治的立場としてどう捉えるかについて述べてみたい。

 私は、「国」の必要からの少子化対策という考え方に疑問がある。

 戦前・戦中の「産めよ殖やせよ」は、当時の厚生省の十訓のひとつで、実際には「産めよ殖やせよ国のため」であった。まさに兵士増産のための生産装置か何かのように国民を捉え、道具扱いしていたことをよく表した標語だった。

 現在は少子化対策の見本とされているフランスの少子化対策も、これが始まった1950年代は、人口が戦争の勝敗に直結していた当時の事情を反映した国策であった。1000年以上の長きにわたり戦争に明け暮れていたヨーロッパでは、人口の多寡が戦争の勝敗に直結していた。対ドイツ戦に完敗したばかりのフランスならではの政策だったのである。

 また、これとは逆に人口抑制を図った中国の「一人っ子政策」は、国の現代化のため国民に子どもは一人、という史上稀にみない出産制限を強いたものであった。

 いずれにしろ、国が、個人の選択権の範疇に属することの最たるものの一つである子どもの数にまで口を出してはろくなことは起きない。個人の選択や幸せは、国策の後ろに置かれてしまうからだ。ところが今、政権与党も野党も、国策としての少子化対策に躍起だし、マスコミ・世論もこれに異論を挟んでいない。同じマスコミ・世論は10年以上前に当時の自民党の柳沢厚労大臣が「女性は産む機械」発言をしたときに彼を袋叩きにしたことなどすっかりと忘れている。しかし、国策としての少子化対策とは、本質的にこの発言とさしたる変わりはない。

 

 先のブログで少子化は先進国における自然な(生物学的な因果としても、個人の選択権の結果としても)流れであり、政策として無理にこれに抗うのはいかがか、という趣旨の論述をしたが、その背景には以上のような思索というか価値観があってのことである。

 だから、国策としての少子化対策としてではなく、国民に対するベーシック・サービスの拡充という見地から国が「幼児教育の無償化」や「高等教育の無償化」を採用するのであれば、それは歓迎すべきところというかむしろ政治目標として目指すところではある。ただし、くどいようだがそのためには財政的国民負担とトレード・オフであることを政治家もそして国民も自覚しなければならないのだ。

 嬉しいことに、今日の財務金融委員会では、財政に関する知見を備えた、私が尊敬する政治家である前原氏と麻生大臣両氏の間で、社会保障に関する本音の議論が行われた。前原氏が「日本の中福祉低負担、国民負担率40%でOECD下位に属している状況は、社会福祉政策的にサステイナブルではない」と質問されたのに対し、麻生大臣は、「福祉を借金で賄ってきた。国民負担率42%では福祉を落としていくしかない。福祉を上げていくには国民負担率を増やすことが必要だ」という趣旨のことを答えられていた。

 世の中は基本的に「等価交換」なのだ。

 心ある政治家(正当な評価を受けているとはいえない野田元総理もそのお一人)の方はこの原則をきちんと自分に落とし込んでいる。そんなやり取りが今日国会で行われたことを最後に付言させていただく。