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人類の進歩,時代の変革に合わせた防衛力整備を。そして,9条,徴兵制を巡る議論について

  ずっと考え,悩んでいる問題がある。防衛-国防を巡る諸問題だ。個人的な思いを述べれば,人が戦争の場に駆り立てられ,そこで死んだり障害を負うようなことは絶対に受け入れられない。だが,世界に紛争が絶えない現実を見れば,「戦争」が起きる可能性を無視することはできず,その可能性を前提とした防衛の在り方について考えることを避けて通ることはできない。

 一方で,戦後75年を経ようとしている現在において,占領下において制度設計された当時の状況と大きく異なる時代の変化と進歩があり,これを踏まえた議論も必要となろう。ここでは,あくまで試論として防衛に関連する事項について述べてみる。

 まず最初に挙げなければいけない意外な事実がある。それは,大規模な,国家間の戦争が減少し国家間の戦争による死者は減少している,という事実だ。あのイラク戦争でさえ,米軍を中心とする有志連合軍の死者数は2003年から2011年の合計で4804人であったという。民間人の死者はこれよりも桁違いに多くNATIONAL GEOGLAFICの記事によれば,同期間の合計で推計50万人とされている。

 この数十万人規模の死者を決して少ないとは思わないが,あくまで比較の問題として,数千万人規模の死者をそれぞれ出した第1次世界大戦,第2次世界大戦とは大きく異なる。数百万人規模の朝鮮戦争,ベトナム戦争と比べても減少している。戦争による死亡者数が減少してきているという事実は歴史上重要な人類の進歩といえよう。

 また,地域的な偏りもみられる。現在,世界における戦争や紛争は,中東・アフリカでの戦争・内戦に限定されつつある。

 その大きな理由は,50年,100年前と異なり,領土や領民が富を生み出す時代ではなくなってきているからだ。その昔,農業が産業主体であったころは,富=農地と農民が産み出すものであり,それゆえ富=領地とそこに所属する領民(農民)であった。ヨーロッパで1000年間戦争が絶えなかったのも,植民地を拡大したのも,領土の拡大が国王や国富の増大に直結していたからに他ならない。

 しかし,現代では,領土を拡大したとしても,それが富の増大に直結しない。逆に支配下においた領土のインフラ整備や国民に対する社会保障などの行政コストが大きく増すので,領土拡大が大変な重荷を背負うことにもなりかねない。現に東西ドイツ統合後,ドイツ経済はその大きなコスト負担によってしばらくの間停滞している。

 一方で,中東の戦争・内戦やアフリカの内戦が未だに成り立っている背景には,「領土」に直結した石油や鉱山などの資源の存在があるのだろう。アメリカがイラクには兵を派遣して独裁者を排除したが,北朝鮮は放置している本当の理由も経済的メリットの有無が関連していると指摘されているところである。

 さて,今の世の中の富を支配しているのは「貿易」と「多国籍展開」である。いつの時代も戦争の動機となってきた,経済的利益を産み出す母体に大きな変化が既に生じたのだ。iPhoneも,ナイキもHUAWEIも,ロシアの石油・天然ガスも,アメリカの農産物も,貿易や多くの国々への展開なくして富を産むことはできない。米中が貿易摩擦の真っ最中にあるが,それでも戦争にはならないだろう。お互いの国の富や繁栄を支えているのは正常な貿易活動であり,相互の国内への自国企業の展開であるからだ。

 こういった社会の大前提の明白な変化から翻って考えると,中国や北朝鮮の脅威論などが盛んに喧伝されてはいるが,それらの国々において,日本を侵略し支配するという動機が湧いて出るとは考えにくい。勿論,北朝鮮指導部の破れかぶれな暴発によるミサイル発射や,離島周辺における中国との小競り合いなどが想定されない訳ではないが,資源など無いに等しい日本への本格的侵略・支配への動機は出てこないのだ。日本を侵略・支配する軍事的実力を持ちうる中国においても,もし万一そのような行動に出たとしたら,国連憲章違反として世界中から経済制裁を受けることは間違いない。そうなれば中国は歴史上見られなかったほどの今の繁栄を自らドブに捨てることになる。

 あまり想定できる事態ではない。

 

 なぜ,今のような思考実験をしたかといえば,国防観,防衛観も時代の進化や変革によって変わっていくのは必然だと思うからだ。今の日本に,第2次大戦前のような大国間の戦争を前提としたような軍事力整備が必要だ,と考える人はほとんどいないだろうが,防衛力整備についても,現実に即した分析が必要なのだ。想定する戦争が大きければ大きいほど,専守防衛といっても必要な戦力は大きくなる。局地的小競り合いのような紛争を前提とすれば,当然規模も小さくなる。空母も不要,ということになる。

 ただし,丸裸でよい,とはならない。戦後想定されたような,日本から完全に軍事力を排除する,という考えを持つものは,現在ほとんどいないと言っていいだろう。

 そうすると次に考えなければならないのは憲法9条を巡る議論。現行憲法については,現政権やそれを支持する勢力などから「押し付け憲法」という批判が根強い。GHQの強い指導の下,策定された憲法であることは間違いないが,ただ,既得権益完全Freeで作られただけあって,当時存在していた最先端の社会理念の結実ともいえるのが現憲法だ。憲法前文そして憲法9条は,それまでの戦争とは桁違いの犠牲者を出した第1次大戦の反省から編み出された国際連盟規約や不戦条約などの延長線上にあるもので,ほぼ同じ頃に作られたフランス第4共和制憲法,イタリア憲法,ドイツ憲法にも同趣旨の条文が置かれている。

 「小作開放」や「財閥解体」,労働組合や労働関連法制の整備など,日本の民主化や戦後の繁栄や高度経済成長の基盤となった社会制度の整備や創設は,皆GHQの上からの改革であったが,これを「押し付け」改革として批判した声を聞いたことはない。押しつけであろうがなかろうが良いものは良いのだ。当時の世界水準の憲法が作られ,その元で日本の発展と繁栄があったのであるから,「押し付け」というだけではこれを変える必然性も必要性もないところである。

 問題は,世界が当時の理想通りに進まなかったことである。周知の通り朝鮮戦争の勃発によりアメリカの方針が転換し,警察予備隊が作られ,これが自衛隊と変化していった。自前の装備すらなかった警察予備隊はともかく,自衛隊ともなれば憲法9条との関連でその合憲性が当然問題となる。

 解釈上,自衛隊が「戦力」に該当するということにはあまり争いがない。問題は,9条1項でいう「戦争」が「自衛戦争」を含むと解釈するのか,含まないと解釈するのかだ。その結論によって,自衛隊の合憲性が左右されることとなる。合憲とする通説は「国際紛争を解決する手段としては」という文言を重視し,「戦争」とは国際法上の通常の用語例に従って「侵略戦争」を意味するものとし,自衛戦争のための戦力である自衛隊は合憲であると解釈している。

 ただし,厳密な文理解釈(法律を条文の文言の意味通り解釈すること)から言えば,9条1項は「すべての戦争」を指すので違憲とする説も存在するし,自衛隊発足の経緯からして実質上の解釈改憲が行われた,と考えるものもある。また,国連憲章との整合性を指摘する伊勢崎賢治氏の立場もある。

 野党においても,左翼・リベラル層の強い支持を受けている立憲民主党において憲法調査会事務局長を務めておられる山尾志桜里議員は「9条議論をしっかりやるべきだ」と率直な意見表明をされているし,枝野代表自身,元々は9条改憲論者であったと記憶している。

 私自身も「憲法9条議論」を避ける必要はないと思っている。ただし,仮にするのであれば,自主防衛の在り方をどのように構築していくのか,そしてその構築に伴い当然再構成されるべき「日米安保条約」及びこれに付随する「日米地位協定」をどうするのか,といった大きな議論と共にすべきなのだ。日本の安全保障の在り方を正面から議論し,米国とのパートナーシップを対等の立場に向けて再構成して行かない限り,沖縄の基地問題はいつまで経っても解決しない。誤解されないように付言すれば,私はアメリカと絶縁すべきと言っているのではない。現在のように日米の緊密な関係を国際関係や安全保障の基盤とするにしても,対等な国家間の連携としてそのパートナーシップを再構築することが必要であると考えるのだ。

 日本の安全保障のもう一つの方向性としては,EUを範としたアジア共同体構想もあるだろう。今後,人口増大が起こり,経済的に次の成功者と見做されているのは,インド,インドネシア,ベトナムなどのアジア諸国だ。アメリカとの関係は大事にしつつ,こういった国々と未来を共有していくというのも一つの方向性だろう。

 いずれにしろ,「自衛隊員の子どもがかわいそう」という感情的議論に矮小化して,国家の行く末を左右する大事な議論,それこそ100年に一度の改憲議論を行うべきではない。

 

 今回の論考で,最後の課題は徴兵制の問題(*後記参照)だ。

 「若者を鍛え直す」という,本来的目的から大きく外れたことをテーマとして徴兵制を論じるべきでないことは明らか。徴兵制の大前提は,兵士としての出兵であり,その先には「死」と常時向き合わざるを得ない苛酷な現実が待ち受けているからだ。

 ただし,それは志願兵制度でも同じことではある。では徴兵制と志願兵制度の大きな違いは何か。それは言うまでもなく「公平性」の問題だ。

 マイケル・ムーア監督の「華氏911」で話題となったが,イラク戦争に賛成したアメリカの両院議員のうち,自分の子どもが軍隊に行ったのはたった一人だったという。また,現在の志願兵制度が「経済的徴兵」といわれるように,貧困層が,大学進学のための奨学金を得るためなどやむにやまれぬ経済的動機から志願していることも報じられている。徴兵制が敷かれていたベトナム戦争時は配属における配慮が行われたこともあったであろうが,少なくとも貧富による実質的な不公平はなかったことになる。それが戦争終結の動機の一つともなったであろうし,実際には起きなかった戦争の抑止力ともなり得ていたのであろう。

 戦時においては,自身もしくは他者の死の蓋然性が,平時の職業では考えられないほど高まるという苛酷な職業が兵士である。公平性の問題を疎かにしてはならないが,それへの従事を強制する徴兵制にはやはり慎重にならざるを得ない,というのが以上を考慮した上での今の率直な考えだ。

 戦後75年を経ようとしている今,維持不可能であることが見えつつある国家財政や社会保障制度の在り方などと共に,防衛やこれに密接に関連する日米安保についても,その在り方を国民と共に政治家が議論すべき時が来ている。そして,その議論の先に初めて見えてくるのが,憲法9条改正を巡る議論である。

 これと異なり,現状のように,憲法9条の文言変更のみが取り出され,感情的な議論が行われているのは不合理であるだけでなく,国の先行きを誤らせるものである。

 

*なお,徴兵制は専門性が高まった近代戦では意味が無く,敷かれることはあり得ない,と論じるものがある。これは明白な誤りだ。今も昔も,戦争となれば歩兵戦闘が主力であり,都市における戦闘は特にそうであることは,イラク戦争やシリア内戦をみてもよくわかる。近代戦の最先端を行くアメリカ陸軍でさえ,基礎訓練期間は6ヶ月だ(ジェット戦闘機のパイロットなどを例に出す者がいるが,そのような長期間の訓練と才能を要する兵種は職業軍人が中心となることは当然だろう)。徴兵制が敷かれている国々をみても,1~3年間の兵役期間が多いようで,その間に基礎訓練がなされることになろう。