青山まさゆきの今を考える > 新着情報 > 下降線のときにもサステイナブルな社会を

下降線のときにもサステイナブルな社会を

 先週,深夜国会が開かれ,衆議院を予算案が通過した。深夜国会となったのは,逆算してそうなるように厚労大臣の不信任決議案が提出され,時間を測った趣旨弁明が野党により行われたからだ。その合理性に疑問の声はあちこちから上がっており,私もその通りだと思う。テレビを意識した野党のアピール,せめてもの抵抗手段としての手法であることは理解するが,やはり時代は変わっている。日本の行く末を正面から議論する姿こそ,野党に求められているところ。そこをこそアピールし,特定の既得権益に配慮することなく国民全体の利益を考えて日本を変えていく,そこを国民によく理解してもらうための戦略を練ってそれに成功した野党がやがて日本の政治を変えていくだろう。

 

 さて,一昔前,まだ世界遺産になる前の屋久島を訪れたことがあった。縄文杉を目指して夜明け前にトロッコ鉄道の線路を通って山に入り,1~2時間過ぎたころだろうか,小学校の跡地だったというところに着いた。こんな山の中に小学校?と驚いたが,今は1人も暮らしていない山深いその地に当時は1000人以上が暮らしていたと聞いて二度驚いたことを覚えている(あくまで記憶なので数字は不正確かも知れません)。木材伐採と炭焼きが一大エネルギー産業であったことをまざまざと示した戦前の歴史の跡であった。何をどうしても今そこに同じ規模の集落を作ることは不可能であろう。

 同じようなことは昭和にも起きた。北海道や九州では炭鉱がやはり一大エネルギー産業であり,そこに従事する労働者も多かった。しかし,エネルギーが石炭から石油へ移り変わり,また,海外の露天掘りの石炭との競争に敗れたこともあって,炭鉱も廃れた。三井三池闘争などもあったが,いかに政治的なものを含めて抗ったとしても時代の趨勢にストップを掛けることは不可能だったのだ。

 最近,連続してブログを書いた人口減少も,大きな時代の流れの中のやむを得ない趨勢なのではないか?必要を超えて増えすぎたものは減り,減りすぎたものはまたやがて増える。自然界の中では自然な個体数の調整が間断なく起きている。人口の増減もこれと同じく自然のなせるわざでもあろう。国といえども無理をしない方がいい。あくまで個々人の幸せを増大させるという範囲で社会の改善を図る。子どもを持つ家庭では,教育費が無償であれば生活は楽になるであろうし,特に幼児を抱えて働く親にとっては,時短や子どもの急病時に気兼ねなく休める仕事場こそ必要なものであろう。ちなみに私の法律事務所では,時短OK,保育所費用1人分は全額支給,子どもの急病時に休むことは完全にFreeなので,出産で休職された方も子どもが1歳になったら職場復帰することが常態化している。

 こういった社会環境改善の結果として出生率が回復することもあるだろうし,それでも著変はないかも知れない。しかし何事も塞翁が馬,一昔前は人口爆発で地球がもたなくなる,食糧やエネルギー不足が深刻化する,と心配されたが,あの中国でさえ人口は峠を越え,日本と同じく極端な人口減少社会をやがて迎える。CO2排出を含め環境負荷は人口減少と共に減るであろう。また,国の最大の責務は国民を飢えさせないこと。異常気象が常態化しつつある中,気象変動による食糧難が起きることもあり得る。そのような突発事が起きたときに人口があまり多いよりは少ない方が当然対処はし易い。

 AIや自動運転などを組み合わせ,人口減少によって過疎化した地域でも最低限の医療サービス(遠隔診療やAIの補助による看護師などの医療補助職による診療)や交通の確保(無人運転車による都市部との交通確保や食料品なども含めたネットショッピングと配達の確保)によってあまり費用(≒税金)を掛けなくともそこで生活を続けることを選択した住民の生活を維持することが出来るようになるだろう。

 サステイナブル(持続可能)な社会とは,常に成長を前提としたものではなく,人口の増減や経済の好不調を含めた,サインコサイン曲線のような変動のある社会において,下降線のときにも対応した成熟した社会を作り上げて行くことなのである。

 

そうした観点に立つとき,先般の臨時国会で急遽上程され成立した入管法改正案による拙速な外国人労働者導入の急拡大は,あまりに無理の多い政策である。今まで研修や技能実習名目で,外国人労働者を奴隷労働のように働かせてきたことは反省し,大きな改善をなすべきであることは言うまでもない。しかし,外国人労働者を日本に馴染ませる努力やその仕組みの制度設計を後回しにして,人数のみを急拡大するのでは,日本社会に大きな軋轢を生む可能性がある。少なくとも日本語を理解し,多少なりとも日本人と触れ合った経験のある外国人であれば,意外に日本社会の考え方・在り方に共鳴するところはあるし,馴染むところは必ず出てくる。しかし,そのような努力や仕組みがない中で人数だけを急拡大すれば,日本社会とは断絶したコミュニティが形成され,日本人との間で強い軋轢が生じかねない。

もう一つ,日本ではまだ意識されていないが,欧州では,宗教上の理由から,イスラム系移民の出生率が格段に高いため,そう遠くない未来に,欧州の人種構成が変動し,欧州がそれまでの歴史的連続性を持った欧州とは全く異なったものとなるであろうと言われ始めている(詳しくはダグラス・マレー「西洋の自死」)。日本という国の人口構成が大きく変動すれば,今の日本とは全く異なった社会が生まれることになる。そのことを,今の経済的必要との天秤で,国民がリスクを甘受して選択するのであればそれはそれでいい。しかし,先頃の法案導入にあたっては,お世辞にも国民に対してわかりやすく説明や問いかけがなされたとは言い難いし,国民的議論がなされたという事実はなかった。外国人労働者に対する日本語教育などの制度が確立されるかどうか,受け入れ数値が過大とはなっていないか,などを含め未来を見据えた制度の検証が,これから受け入れが始まっていくと同時になされていかなければならない。

 

 最後にもう一つ,忘れてはならないのは,サステイナブルな社会を目指す中には,国や地方自治体の財政の持続可能も含まれているということだ。国民に対する人口減少対策ともなるベーシックサービス(教育費無償化や子育て給付金など)の拡充が,負担の先送りである国債発行に過度に依存してはならない。やるのであれば,消費税・法人税の税率引き上げや,他の支出(よくいわれる防衛費だけではなく歳出全般)の削減を含め,国民全体もしくはどこかの既得権益層に痛みを伴う政策導入として行わなければ真に未来を見据えた持続可能な政策とは言えない。

負担もなく,サービスだけが拡充される,そんな都合のよい話はどこにもない。あったとしたら,必ずどこかに隠された問題があり,やがてその問題が新たなる問題を生むのだ。